top of page
Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

【お知らせとお願い】
​ メールアドレスを登録して頂ければ、
 新規ブログ更新毎にお知らせメールが届きます。​
 この機会に、是非、ご登録をお願い致します。​

ご登録ありがとうございました

 *登録の手順) アドレス入力 → 「>」を押下
hccnichigo

 主に聖別されたレビ人が聖なる箱を担ぐことから解放されて、イスラエルの王ダビデの文書とその子ソロモンの書簡に従って、神と、その民イスラエルに仕えることを、ヨシヤは祭司を力づけ、レビ人を教えに導いています。


 聖なる箱を担ぐことからの解放がどれだけ助かったことでしょうか。これまで何度も心を引き締めて川の流れの中を通って担いできただけに、この報酬がどれだけ大きかったものであったかが示される思いです。その聖書の箇所を読むたびに、自分も聖なる箱を担いでいるような緊張感を味わったことが何度かありました。忍耐を持って主の務めに応じてきたレビ人たちは、今それが報われてきたということではないでしょうか。何事も、主に忠実に従っていくことが私たちの信仰生活につながっていくことでもあります。


 ヨシヤはかつてヒゼキヤがそうであったように、イスラエルの贖いにとって最も大切な過ぎ越しの祭りを再開させた。王は自分の財産の中からいけにえを民に提供したのである。そして、王の高官たち、民、祭司、レビ人のために、進んで捧げものを提供した。レビ人は、奉仕をしている人たちや賛美をリードしている人たちにもいけにえにあずかることができるようにしました。預言者サムエルの時代以来、イスラエルのどの王も、ここでヨシヤが、祭司とレビ人、そこにいる全ユダとイスラエル、エルサレムの住民とともに献げたことはなかったと記されています。これほどまでに、主を愛し、民のことを考慮したヨシヤでも大きな失敗で命を落とす結末となってしまったのであります。


 エジプトの王ネコが、ユーフラテス河畔のカルケミシュで戦うために上って来た時のことである。ネコは、ヨシヤにユダと戦うつもりがないことを使者を遣わして言ったにもかかわらず、ヨシヤは身を引かず彼と戦おうとして、変装までして敵の攻撃をかわそうとしたけれど彼は死んだのである。21節(抜粋)でネコが使者を遣わしてヨシヤに言った言葉が目に留まった。「神は、早く行くように命じておられる。私とともにおられる神に逆らうことはやめよ。さもなければ、神があなたを滅ぼされる。」その時にどうしてヨシヤは主の警告を無視したのでしょうか。解説者によると、異教徒のネコに対する見下しだと言われています。彼の高ぶりでもあったのでしょう。私たちにも言えることでもあります。異教徒の人たちを決して見下してはいけないということです。


 

天の父なる神さま。

今日の御言葉を心から感謝します。どのような異教の人にたいしても高慢にならずに、主にへりくだるように、他者にもそういう心を持って接することができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


hccnichigo

「ヨシヤは八歳で王となり、エルサレムで三十一年間、王であった。」1節


 ヨシヤ王は、若い心で神さまを求めることがいかに人生を変え、影響を与えるかを教えてくれます。ヨシヤはわずか16歳で神さまを第一に求め、偶像礼拝が蔓延する中で、神さまに従う道を歩み始めました。これは、年齢や状況に関係なく、私たちも神さまを第一にする生き方を選べることを教えられます。


 ヨシヤが26歳になったとき、神殿修理の中で律法の書が発見されました(14節)。その書記官シャファンが朗読した律法のことばに深く心を動かされたヨシヤは、自らの罪を認め、衣を裂いて悔い改めました(19節)。さらに彼は、民を集めて律法の書を読み聞かせ、彼らと共に神さまとの契約を誓いました(30-31節)。彼の行いは、神さまの言葉が私たちに罪を示し、新しい方向へと導く力を持っていることを教えてくれます。


 ヨシヤの悔い改めの姿勢は、神さまの前でへりくだることの大切さを示しています。


「あなたがこの場所をその住民について神のことばを聞いたとき、あなたは心を痛めて神の前にへりくだり、わたしの前にへりくだって自分の衣を引き裂き、わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れるーのことばー。」27節


 彼はただ律法の言葉を聞き流すのではなく、神さまの言葉を聞き、心を開き、行いへと移すことをしました。私たちも日々の生活で聖書を読むとき、神さまが私たちに何を語ろうとしているのか、そして、神さまの言葉に示される罪を認め、それに応える悔い改めの心を持つことだと思いました。


愛する天のお父さま

 あなたの言葉は私の道の光であり、足のともしびです。ヨシヤのように、どんな時でもあなたを第一に求める心を私に与えてください。あなたの言葉を聞いたときに心を開き、罪を認め、悔い改めることができますように。そして、あなたの言葉に従い、生活の中でそれを実践する力をお与えください。また、私の周りにいる人々ともあなたの言葉を分かち合い、共にあなたを見上げて歩むことができますように。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


hccnichigo

「強くあれ。雄々しくあれ。アッシリアの王や、彼とともにいるすべての大軍を恐れてはならない。おののいてはならない。彼とともにいる者よりも大いなる方が、私たちとともにいてくださるからである。」―7節―


「彼とともにいる者は肉の腕だが、私たちとともにおられる方は、私たちの神、主であり、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる。」―8章―


 アッシリアが攻めて来た時に、彼らはエルサレムを嘲り、脅迫してヒゼキヤとの関係を壊そうと企んだ。だが、ヒゼキヤはそのようなことに屈せずに民にたいして、7節と8節でかれらを勇気ずけることばを発したのである。さらに、預言者イザヤとともに祈り、天に叫び求めたのである。ヒゼキヤが冷静に神を求める様子がうかがわれます。私たちが大いに学ぶべきことでもあります。国の上に立つ者が真心から神を求める心をもって司っていけば世界が変わっていくのではないでしょうか。そのためにも、私たちがそのリーダー達の為に祈り支えていくことだと思います。


 32章を通して、ヒゼキヤから学ぶべきことが多くあります。どんな時にも神を求め、神への熱心さは決して断たれることがないということ。たとえ心が高ぶっても、その心の高ぶりを捨ててへりくだるということができること。これが神に信頼していく姿勢ではないでしょうか。そして、人々を正しく説得したり、物事に対して手抜きせずに細心の注意を払ってやり通していくということ。


 しかし、これでめでたしかと思ったらそうではなかった。富と誉れに恵まれたヒゼキヤは高慢になったのです。これが人間の本来の姿でしょうか。31節で、「神は彼を試みて、その心にあることすべてを知ろうとして彼を捨て置かれた。」ということが語られています。どういうことかと言うと、高ぶったヒゼキヤが、バビロンの首長たちにすべてのものを見せるようにさせましたが、それは神が彼を試みて、その心のあることをことごとく知るために捨て置かれたからだと解釈されています。普段は隠し覆うことができても、自分の財産はこれだけあるのだと見栄を張ることによって、自分は金や富を求めていることが露わにされたということです。人は隠し覆うことができても、神の目はすべてをご覧になっておられるのです。



 天の父よ、私たちの心には常に隠し覆うことが多々にあります。しかし、あなたの目はすべてをご存知です。どうか、あなたの目にかなうことができる義の道へと導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


bottom of page