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2020年11月23日ディボーション

旧約聖書 サムエル記第二 8章

「神様に何をささげるか?」


6節「主はダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた」

14節「主はダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた」

18節「ダビデの息子たちは祭司であった」


●学んだこと

 ダビデは敵であるペリシテ人、モアブ人、そしてそれから先の戦いも、主によって勝利し地中海の東側の地域を治める事となった。この戦いの中で残念なのはかつてはダビデの父母を委ねるような信頼関係のあったモアブ人の王との関係(サムエル紀第一22:3)。この時にはすでに崩れ去り、敵となっている。しかし全滅させるのではなく「縄一本で図ったものは生かしておいた。」(2節)とある。これは女子ども、年寄りなどに値するのであろう。この指示も主のお告げによるものだったかは記述がないが、きっとダビデは戦いの前には主に尋ね、親戚のようなモアブ人と戦うことに苦悩していたのだと思う。

 現代と違い、車も電車も無い。そんな時代なのに戦い進んで次々に領土を拡大する。6、14節にあるように、そんな事ができるのはダビデが主に寄り添い謙遜に聴き従った結果の何ものでも無い。

 「ダビデ王は、それらもまた、主のために聖別した」(11節)戦いの度ごとにダビデは主を仰ぎ、戦いで得た宝物を主に捧げた。神様は金銀財宝が好きなのか・・・いえいえ違います。「素晴らしいものは最初に神様に捧げよう!」と言うダビデの気持ちが嬉しかったのだと思います。簡単に金銀財宝が手に入らない。もちろん、そんなお金持ちでは無いので私は何を捧げよう。先日の日曜礼拝説教にあったように、主の愛を実践する私を捧げたい。18節にあるように、ダビデの息子たちは献身して祭司となった。祭司とならずとも、主の働き手として歩む事は出来る。

 生まれた時に何も持たず、主の元に帰る時にも何も持つことが出来ない。ここまで主の愛と精霊様の力によって魂が磨かれた(まだ途中の原石状態だが・・・)私を神様は喜んでくださるだろうか? 神様に喜んで用いられるような存在になりたい。そしてダビデのように主と共に明日も歩んで行きたい。


●祈り

 天の父なる神様。主の御名を褒め称えます。今日も私を生かしてくださりありがとうございます。あなたの愛によってこの世に生かされている私です。まだまだ足りないところがある者ですが、そうぞ貴方の御心を行う物としてお使いください。私が唯一あなたに捧げられるものが私自身だから・・・ダビデのようにいつも貴方と共に歩みたいです。

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