詩篇第三巻 79篇
人は誰でも「もう自分の力ではどうすることも出来ない」という状況に置かれることがあると思う。
自分の手で自らを破滅に導く原因をつくることもあれば、納得できる根拠がない不当な扱いを受けたり、攻撃の的にされることもある。
どちらにせよ、このままではもうダメだという焦りの感覚に襲われ、不安や恐怖に怯える。生きる気力を失くしてしまうことだってある。
そんな時、私たちをあわれみ、心を立て直してくださるのは神さまだ。
なぜ、神さまは、私たちをあわれんでくださるのだろう。それは、私たちは神ご自身の作品だからだ。自分の手によって生み出した尊い作品が、傷ついたり壊れたりする様子を見て、楽しいはずがない。悲しみに打ち沈み、胸を痛めるに違いない。
この79篇は、神を知らない国々によって、神の作品(神の宮や神の民)が破壊されたことを嘆き、作り手である神ご自身に、その修復を願い求めている詩。
「私たちの救いの神よ 私たちを助けてください。御名の栄光のために。私たちを救い出し 私たちの罪をお赦しください。御名のゆえに。」(9節)
私はこの箇所を読み、ハッとした。
「御名のために」と祈っている。
「私のために」救ってほしいとは言っていない。
ここに、クリスチャンとしてのあり方を示されたような気がした。
私が常日頃、神さまに願い求めている内容は、神の栄光のためだろうか。違うような気がする。もし「御名の栄光のために」私自身が犠牲になる必要が出たとしたら、私は間違いなく、その場から一目散に逃げ出してしまうだろう。
三浦綾子さんが書かれた本の中に、こんなお話があった。
海外から日本に来ていた二人の宣教師が、北海道から青森へ渡る船に乗っていたとき、船が転覆。ライフジャケットが積み込まれていたが数が限られていた。その時、二人の宣教師は、自分たちが手にしていた救命胴衣を、他の若い二人の日本人に譲ったそうだ。そして、こう言い残し、溺れて死んでいった。「日本の将来には、君たちのような若い人間が必要なんだ。」
今の私には到底まねのできない行いだ。
けれど神さまは、このような人間に成長していくことを望んでおられる。自分のためではなく、他者のために生きる。それが結果的に、主の栄光につながることを、聖書を通して教えてくださる神さま。
私も、御名の栄光のために祈り、実行に移せる人間になりたいと強く思った。
「私たちは あなたの民 あなたの牧場の羊です。私たちは とこしえまでもあなたに感謝し 代々限りなく あなたの誉れを語り告げます。」(13節)
祈り:
愛する天のお父様。落ち込んだり傷ついたりするとき、いつも寄り添い、あわれんでくださることに感謝します。自分が生かされている時間を、神さまへの信頼で満たす事ことができますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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