詩篇第四巻 90篇
90篇から、第四巻に入る。
この詩篇は、モーセの祈りと言われている。その特徴は、「とこしえから とこしえまで、あなたは神です。」(2)とあるように、神の永遠性を想う賛美である。
その永遠、無限の神に対して、「あなたは人をちりに帰らせます。」(3)とあるように、人間の有限性を対称的に描き出している。
そしてモーセは祈る。「どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに 知恵の心を得させてください。」(12)
「自分の日を数えること」とは、自分の肉体は有限な存在であり、かならず地のちりに帰ることを前提として、正しい「死生観」を持つことを勧めている。
「死生観」とは、生きることについて、死ぬことについて考えることだ。特にどう死ぬか、終活を考えることである。生きることは死ぬことであり、死ぬことは生きることでもある。生と死は、繋がっている。
どう死ぬかを考えることは、今をどう生きるかに直結する。今という生の先に死があるからだ。
そのことを意識して生きるとき、私たちは「知恵」のある生き方ができる。「知恵」とは、一言でいうと「どのように生きるか」ということだ。
モーセは、約束の地カナンを目前にし、荒野で息絶えた。彼の死生観とは、どのようなものだったのだろうか。
「モーセは、すべて主が命じられたとおりに行い、そのようにした。」(出エジプト40:16)
これが、モーセの生涯を貫いた生き方である。モーセは、神の御心によってピスガの頂きで死んだ。モーセにとって、生きることも、死ぬことも、神の御心であった。
パウロの告白、「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(ピリピ1:21)を想起させる。
私たちが、自分の日を数える、つまり正しい死生観を持つとき、今のこの時を正しく生きることができる。今日という生かされている日を大切にすることが出来る。
だからこそモーセは「朝ごとに、あなたの恵みで私たちを満ち足らせてください。私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむことができるように。」(14)と祈ることができた。
自分の肉体が有限であることを知るとき、この地上の一日一日の重さ、大切さが違ってくるだろう。
そればかりではない、やがて地のちりに帰るこの有限な肉体も、後に永遠に朽ちることのない栄光の身体に変えられて、私たちは永遠に神と共に生きることになる。
それが私たちの希望である。
天の父なる神さま。私たちの肉体は有限です。今から、どう生き、どう死ぬかを考えることが出来ますように。そして、今を十分に生きることと、永遠への希望に生きることが出来ますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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