旧約聖書 列王記第一 20章
『神の目に正しい事とは何か』
「主はこう言われる、私が聖絶しようとした者をあなたが逃したので、あなたの命は彼の命の代わりとなり、あなたのためは彼のための代わりとなる」42節
●学んだこと
人の目に正しい事と神の目に正しい事とは一致しないことがある。それは神が私達の長い人 生を遠くから俯瞰して最善の計画を立ててくれるからである。 この章は10部族を率いるイスラエルの王にアラムの王、ベン・ハダドと三十二人の王が宣戦 布告する事から始まる。
明らかに上から目線のアラム王。「お前の銀と金、およびお前の妻や 子ども達を私に与えよ」(5節)なんて言ってくる。そんな条件、のめるわけがない。 まだ戦ってもいないのにアラム王は仮小屋で三十二人の王と酒を飲んでいる。12節、16 節と2度もそんな表現が出てくる。
それに対してイスラエル王は「武装しようとするものは、 武装を解く者のように誇ってはならない」(11節)と答え、戦う前からまるで勝利したかの ように強気のアラム王に対して皮肉を言う。物理的には、人間の理解の範疇では不利と思える ような状況のイスラエルの民。しかし、アハブは主が共にいてださる事を信じていたから、こ のような強気の発言ができたのだと思う。
実際に13節、28節で主は預言者を使わしてアハ ブ王に、「あなたは、この大いなる軍勢を見たか。見よ私は今日、これをあなたの手に引き渡 す。こうしてあなたは、私こそ主である事を知る」と語る。なんと恵まれた王か。私も預言者 にアハブ王のように主の御心を語っていただきたい。 しかし、せっかく主がアハブの見方をしてくれると言う確信を得たのに、主の御心を行わな かったアハブ。ベン ハダドの甘い言葉に心動かされて逃してしまう。(34節)
アハブがベ ンに情けをかけて逃してやったのだから良いのでは….優しいではないか……と思うが、そ れは主の御計画ではなかった。それ故に預言者を通して「あなたの民は彼の民の代わりとな る」(42節)
実際に近代の歴史でも同じような事が起こっている。根絶やしにしなければなら ないと神がおっしゃるときは、遠い将来を見据えてのことだからそうせねばいけないのであ る。
アメリカでは政権交代劇の真っ只中、言論の自由と言うアメリカ憲法。その憲法違反が公 然と行われるような状況となり、ここは本当にアメリカなのか? と思う毎日である。主の目に 叶うことが完全に行われるよう祈りたい。しかし、アハブがベンを逃すような容赦は無用。私 達は主のご計画が完全である事を信じて前を向いて歩いていきたい。
●祈り
天の父なる神様。今日も沢山の恵みをありがとうございます。あなたは大きな鷲の如く、遠く から私達の将来を見据えて、最善の計画を、そしてそれに必要なお導きを下さいます。それを 私たちが今理解できないとしても私は信じてあなたのお導きに全てを委ねます。なぜなら、あ なたはいつも私の幸せのために最善のレールを引いて下さったからです。この感謝と祈りをイ エス様のお名前を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。
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