ヨハネの手紙 第一 4章
かつては、「雷の子」と呼ばれていたヨハネが、「愛が分かった」(3:16)と言った。この手紙には、愛を知り、愛に満たされたヨハネの感謝、感動、感激が、その筆致からビンビンと響いてくるようだ。
4章には、21節あるので、21回メッセージを語りたいくらいの内容だが、20、21節には、私たちへのピリ辛な一言が書かれている。
「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は兄弟も愛するべきです。私たちは、この命令を神から受けているのです。」
しかし、この真理は、まさに真理だ。目に見えない神との愛の関係は、目に見える形で隣人との関係に反映される。その時に、私たちの信仰は、ただの観念的、精神的な世界ではなく、また宗教的欺瞞、自己満足ではなくなるのだ。
「神がまず私たちを愛してくださった」(4:19)ので、私たちも隣人を愛するとき、そこに神の臨在がある。なぜなら神は愛だからだ。
目に見えない神との関係と、目に見える隣人との関係は、いつも一致していたい。ヨハネがこの事を記したのは、この両者を切り離して、隣人との関係をいい加減に扱っていたグノーシス主義という異端の存在がある。
この異端が蔓延ったのは、それが人にとって楽だからだ。面倒な人間関係を持たなくても、自分だけ神の愛の中に浸っていればいいと言うのだ。
「自分を愛するように、隣人を愛する」という戒めを失くしてしまうなら、私たちは、自分の愛の足りなさや、罪深さを知ることがないだろう。その点、楽なのだ。しかし、それでは、十字架のイエスのもとに行くことはないだろう。
現在の礼拝のオンライン配信に関しては、良い面がたくさんある。しかし、自宅でも、どこでも一人で礼拝できるということが、隣人を愛することから私たちを遠ざける事にならないように注意したい。
しかし、この神の愛を受けるとき、私たちは、隣人を愛さずにはおれなくなる。最近も、一人の助けを必要としている方へのケアチームを立ち上げたところ、愛がほとばしり出るかのように多くの助け人が参加してくださった。皆さんが喜びにあふれて仕えている姿を見て感激である。
オンラインであろうと礼拝である以上、そこに参加している方々は、隣人を愛することから遠ざかるどころか、ますます隣人への愛が増し加えられていることを、心から主に感謝したい。
祈り
天の父なる神さま。あなたがまず先に私たちを愛してくださったことを感謝します。その愛をもって隣人を愛することができるように、さらにさらに愛を増し加えてください。
愛することの弱さ、足りなさを思わされる時、自分が素直に十字架のもとにいくことができますように。そこでまた、あなたの愛を知れることを感謝します。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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