エステル記8章
ハマンの企みは、見事に粉砕され、モルデガイをかけようとした木に、自らがかけられることになりました。
この出来事を、ユダヤ人を善としハマンを悪役にするような勧善懲悪的ドラマとして見るならば、まさに『半沢直樹』のような倍返しを彷彿させる痛快な結末です。そしてユダヤ人は、今も、このエステル記の出来事を記念してプリムの祭りを祝います。
しかし、これは単純にユダヤ人が善で、ハマンは悪役という事ではありません。これは、神の真実、約束、選びの確かさを現わしています。
申命記には次のように記されています。
「あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されたとき、あなたは心の中で、『私が正しいから、主が私をこの地に導き入れ、所有させてくださったのだ』と言ってはならない。これらの国々の邪悪さのゆえに、主はあなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。あなたが彼らの地を所有することができるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心が真っ直ぐだからでもない。これらの国々の邪悪さのゆえに、あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また主があなたの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである。」申命記 9章 4〜5節
私たちは、どんなに素晴らしい祝福にあずかったとしても、それは、自分の正しさがもたらしたものではなく、自分の正しさを証明するしるしではないことを自覚していたいと思います。ただ、神の真実であり、約束と選びの確かさなのです。ですから恵みなのです。
そして、「王の名前で印を押しなさい、王の名で書かれ、王の指輪で印が押された文章は、誰も取り消すことはできない」(8:8)と記されています。
私たちは、今や約束の聖霊によって証印が押された者たちです。(エペソ1:13)この王の王である主の証印は、誰も取り消すことができません。
私たちは、イエス・キリストの贖いによって神のものとされたのです。
だから、神は、私たちを祝福してくださるのです。
だから、私たちは、自分を誇ることはしないのです。
だから、私たちは、主を誇りとして、賛美と感謝を捧げるのです。
祈り
天の父よ。神の約束、選び、真実の確かさを想います。この恵みのゆえに、私たちは、あなたの祝福の中にあることを感謝します。ただただ、あなたを誇り、賛美を捧げます。どうぞ私たちが、この恵みを忘れて高慢になることがありませんように、どんなに勝利しても、祝福されても、主を誇り続けることが出来ますように、私たちの心の道筋をお守りください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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