2021年7月6日ディボーション
- hccnichigo
- 2021年7月6日
- 読了時間: 2分
ヨブ記13章
『神に対話を求める信仰』
「黙れ。私に関わるな。この私が話す。私に何が降りかかってもかまわない。」13節
友人たちと対話を続けるヨブだが、この時とうとう、友に対して、その堪忍袋の緒が切れてしまった。友人たちは、自分のことではないから淡々と語る。しかし、当事者はヨブ。一番苦しくて辛いのは、ヨブだ。彼らはヨブにとって親しい友人かもしれない。しかし、もうこの時ばかりは、「もう聞きたくない。お願いだから何も言わないでくれ。」という当事者の叫びが伝わってくる。
もちろんヨブほどではなくても、このようなことというのは、私たちも人間関係を生きていると、似たシチュエーションに直面することがあるだろう。それはヨブ側かもしれないし、もしかしたら良かれと口を突いてしまった言葉が、友人側のような失敗をしてしまうことさえ・・・あるかもしれない。
ヨブは、そのような友人との対話の限界を迎えて、導かれた願いがあった。それは、友人たちの助言ではなく、神様そのものと論じ合うことだった。
「けれども、この私は全能なる方に語りかけ、神と論じ合うことを願う。」3節
彼のその動機から、不思議にもこの友人ツォファルに対する返答は、この章の後半(20節〜)で、神様への訴えへと変化していく。ヨブはこの時、友をすり抜けて、神に心を向け、神に直接乞い願う。
「あなたの手を私の上から遠ざけてください。あなたの恐ろしさで、おびえさせないでください。
呼んでください。私が答えます。あるいは私に語らせ、あなたが返答してください。」21〜22節
いつの間にか、友との対話に疲れてしまい、神ご自身に答えを求めている自分がいた。友は変わらず近くにいただろう。しかし、関係ない。神様、私はあなたと対話がしたいのです。
私たちには、目に見える横の人間関係と、目には見えない縦なる神様との関係、両方の関係がある。その両者の関係の中で、信仰者は時に葛藤を覚えながら、それでもがむしゃらに神を信仰する。
それこそが、この世を生きる私たち信仰者のリアルな姿なのかもしれない。
天のお父様、
私がどんなに行き詰まり、倒れそうになっても、ヨブのようにがむしゃらにあなたに近づく信仰を、私にも与えてください。アーメン。
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