エゼキエル書19章
『与えられた恵み』 byアイゾン直子
君主たちへの哀歌と題されるこの章は、主の目に悪であることを行ったユダの王たちに下る、神のさばきについての悲しみの預言となっています。エゼキエルは、たとえを用いて神のことばを伝えています(解釈について「NIV Life Application Bible Study」参照)。
雌獅子とは、ユダ王国のことだそうです。善王であったヨシア王が殺された後、ユダ王国(雌獅子)は、ヨシア王の三男エホヤハズ(子獅子)を王とします。しかし彼は、主の目に悪であることを行う王でした(2列王23:31‐34)。彼はその悪行によって捕らえられ、エジプトへと連行されました(3‐4)。
次に出て来る、「ほかの子獅子」(5節抜粋)ですが、これは、ヨシア王の孫となるエホヤキン王、または、エルサレム最後の王ゼデキヤという2つの解釈があるようです。これを、エホヤキンと解釈するなら、第2回バビロン捕囚の時代となり、過去のことについて語っている、ということになります。しかしゼデキヤと解釈するなら、第3回バビロン捕囚の預言、ということになります。いずれにせよ、どちらの王も主の目に悪であることを行う王たちでした(2列王。24:8:16、2列王24:18‐20、25:1‐6)。また、どちらの王もバビロンへと連行されます(5‐9)。
あなたの母、ぶどうの木、とたとえられているユダ王国は、豊かな国でありました。しかし、ゼデキヤ王(強い枝)の不信仰はもちろん、彼の行動は神のご計画に対する反逆でした。そのため彼は、神のさばきを受け、バビロン(東風)に連行されて行きます(2列王24:18‐20、25:1‐6)。
ゼデキヤ王のバビロン捕囚は、ユダ王国にとって、王制の廃止を意味していました。王がいなくなったエルサレムは崩壊するしかないのです。これ以降、エレミヤの預言通り、70年にわたってイスラエルの民は離散の民となっていくのです。
このように、イエス・キリストが与えられるまでの罪人には、神が直接さばきを下しました。罪の報酬は死、だったのです。しかし、御子イエスの十字架で流された血のささげものは、それまでの犠牲のささげものに優る「唯一のささげもの」として神に受け入れられ、これにより、主イエス・キリストが自分の罪のために死なれたこと、墓に葬られたこと、そして三日目によみがえられたことを信じるすべての人の罪は、赦されることとなりました。
「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。」(ロマ6:23)
イスラエルの民の行動は、今を生きるすべての人たちの行動を表していると思います。聖書は、現代を生きるすべての人へのラブレターです。彼らの歴史を学ぶことで、主とともに生きることの素晴らしさを知ることが出来ると思います。この聖書を、一人でも多くの方、特に、自分の家族と分かち合うことが出来るよう、引き続き、祈っていきたいと思います。
祈り:愛する天のお父さま。イスラエルの民の歴史を通して、今すべきことを学ぶことができましたことを、感謝いたします。一人でも多くの方に、あなたの福音を伝えることができますよう、どうぞ導き、用いてくださいますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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