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2022年2月14日 ディボーション

マルコの福音書16章


『信じること』


 イエス・キリストは約束どおり、三日目によみがえられた。そして約束どおり、ガリラヤに行かれ、弟子たちの前にその姿を現してくださった。そしてその一連のみわざ(十字架の死、葬り、復活、昇天)は、迫害をも恐れず、ひたすら福音を伝道する者へと、弟子たちを変えていったのである。


 しかし、復活されたイエスが目の前に現れるまでの弟子たちは、誰一人としてイエスのよみがえりを信じなかった。弟子たちは、十字架にかかる以前のイエスが語ることばや、目の前に起こる奇跡を体験し、イエスが主であることを信じていた。イエスこそが、ユダヤ人たちが待ち望んでいた救い主であることを信じていた。

 しかし、そのようなお方が、人間によって作られた法によってさばかれ、なんら抵抗することなく、十字架刑というもっとも悲惨な刑によって死んでしまった。人間として死に、墓にまで葬られてしまった。弟子たちは、絶望していただろう。だから、三日目になって、死なれたはずのイエスが、死人の中からよみがえったという話を聞いても、すぐに信じることなど出来なかったのだろうと思う。


 キリスト教はもちろんのこと、宗教はすべて信じることから始まる。カルト的宗教が横行するこの世の中で、信じる対象を吟味することは非常に大切なことである。

 昔まだ無宗教であった頃の自分は、「信じるだけで救われる」という言葉を聞いたとき、そんなバカな、と思った。信じるだけで救われるなら、誰も苦労なんかしない、と思った。その当時、信じることは容易いことと理解していたのである。


 しかし以前、聖書の学びをしていて、ある質問に出会った。


「どうしてイエスが十字架で死なれ、墓に葬られ、三日目に復活されたことを信じることができたのですか?」


 考えてみたが、これといった答えは出なかった。明確な理由を探しても、見つからないのである。そして、学びをリードされる牧師先生がその質問に対する正しい答えを教えてくれた。


「聖霊によるのです」


 クリスチャンであるなら、これほど納得のいく答えはないだろう。自分たちの力によって、信じることなど不可能なのだ。けれど、聖霊が内住される今、信じる力が与えられ、聖書のみことばすべて、神の霊感によって書かれたものであると、信じられるのである。

 クリスチャンであるなしに関わらず、人間には霊的資質が備わっているという。しかし、唯一であられる主を信じない人の霊性は眠っており、聖書に書かれてあるみことばを信じることができない。ちょうど、聖霊が降る以前の弟子たちが、イエスのよみがえりをすぐには信じることができなかったように、聖霊によってのみ、信じる力が与えられるからである。


 聖霊の満たしが、信仰生活を豊かにする鍵である。日々、それを求める習慣をつけていきたい。


 祈り:愛する天のお父さま。あなたを信じます。イエス様が私の罪のために十字架で死なれたこと、墓に葬られたこと、そして三日目によみがえられたことを信じます。このことのゆえに私は救われ、新しくされたことを、心から感謝します。聖霊の働きによって、未だ主の救いに与っていない、日本にいます家族や友人に、この福音を伝えることができますよう、導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。



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