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2022年2月28日 ディボーション

箴言14章


 箴言には「わが子よ」で始まる節が多い。神さまはいつも「わが子よ」と私たちを呼び、知恵を授けてくださる。牧師先生が、「物には買うと取扱説明書がついてくるが人間についてこない」、とおっしゃったことがある。箴言は私たち人間の取扱説明書の一部だ。感謝です。

 この知恵の書には反対語が多く使われている。14章も「知恵のある女」と「愚かな女」で始まる。

 昔、学校で”時間”の反対語は”空間”である、と教えられた。なんだか納得できなかったのでネットで調べると、解答者は「時間は現在・過去・未来と一定不変の速度で移っていくが、空間は高さ深さ左右前後と、どこから始まりどこで終わるのか分からないから反対語だ」と説いていた。それでも納得がいかない、という人の投稿がいくつもあってほっとした。そうか、他の人と理解が違うと不安になるのかと思い、他の人と違わないことで安心した自分に気がついた。

「あなたはあなた。他の人と比べることなどできない。そのままのあなたを神様は愛しているのだから」、違っていいんだよという教会の兄弟姉妹の言葉を思い出した。


 ところが、たった一語の違いで大騒動も起きる。約2週間前のニュースに私は驚愕した。アリゾナにある、とあるカトリック教会の神父がバプテスマを20年以上続けていたが、カトリックの本拠地バティカンがそれらは全て無効であると裁定したというのだ。無効になった理由は、”I “と表現するべきところを、”We”ととなえて洗礼を授けたからだ。

 ” (I )We baptize you in the name of the Father, and of the Son and of the Holy Spirit.“

 たった一語の違いだけで、何千人という人々がバプテスマを受け直さなければならなくなった。

 ニュースを知って私は、「信徒たちは父なる神、聖霊によりイエス様を通してバプテスマを受けたと信じているはず」。だからValid(有効)なバプテスマだったのではないかと思った。

 今回このデボーションを原稿にするにあたり、関先生に訊ねてみた。とても理解しやすい内容だったので、少し長くなるが以下に添付します。


 マタイ28章20節「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマをさずけ」

 教会は、このイエスの命令に従って、洗礼を行っています。


 問題は、「あなたがた」とは、誰を指すのか、ということです。つまり、誰が洗礼を授けるのかという問題です。この解釈において、カトリックとプロテスタントに相違があります。


 カトリック教会は、この「あなたがた」を、神父一人一人と解釈しているわけです。ですから、神父は「I」という主語で洗礼を授けるという事だと思います。


「I」とは、イエス・キリストの事だとありますが、正確には、イエス・キリストの権威を委ねられた代務者としての神父ということになります。


 プロテスタントは、教団教派によって違いがありますが、一般的には、この「あなたがた」を「教会」と理解します。牧師は教会を代表して洗礼を授けます。ただしその牧師は、教会から牧師としての召しを認められた(按手礼を受けた)者です。


 プロテスタントの場合、牧師は按手礼を受けることで、洗礼式、聖餐式、冠婚葬祭の司式を行うことができます。按手礼とは、教会が、その人物を神に召された牧師であることを承認するという意味です。


 なので、牧師個人が洗礼を授けているのではなく、教会が洗礼を授けているという理解のゆえに「We」を使います。


 ホノルル教会の場合は、「私たちは、**さんの信仰告白を聴きました。よって、イエス・キリストが教会に委ねてくださった権威をもって、あなたに洗礼を授けます」と言って、海に入っていきます。


 そして「**さん、私たちは、今、父と子と聖霊の名によって、あなたに洗礼を授けます」と言って海に沈めます。


 プロテスタント教会の中でも、「私は」と言って洗礼を授ける牧師もいます。実際のところ、それぞれの神学があるわけです。私の場合は、上記の神学的理解のもと「私たちは」を使用しています。


 さらに言えば、按手を受けた牧師以外の人から洗礼を受けた場合、それは無効なのか?ということですが、私は、有効だと思っています。聖霊の働きを人間の作った規則に制限することはあってはならないと思っています。


 ただし、もし、受洗者が、信仰を告白をしていない、信じていない、強制があった、感情的な誘導や、マインドコントロールがあって洗礼を受けた場合、その洗礼は無効だと思います。本人の人格的意志がないからです。そのようなトラブルを防ぐ意味で、原則的に按手を受けた牧師が洗礼を授けることが望ましいと思います。


 ここで一番大切なことは「イエス・キリスト」というお方により全てが変わる、ということだと私は思う。イエスさまのあわれみなくして私たちはバプテスマを受けることはできない。

「主を恐れることはいのちの泉、死の罠から離れさせる。」(箴言14:27)

 父なる神様がイエス様を通して私たちを昨日も今日も明日も共にいて救ってくださいます。今日も「わが子よ」と私たちを呼んでくださっています。


祈り:

 天の父なる神様、今日の御教えもありがとうございます。御子イエス様を通して全てが始まることをリマインドしてくださりありがとうございます。あなたの愛するひとり子、イエス様をこの地に遣わせて私たちを救ってくださったこと、イエス様を通し私たちをあなたの子どもとしてくださったこと、そしていつも「わが子よ」と呼んでくださっていること、ありのままの私たち一人一人を愛してくださっていることに深く感謝します。私たちがあなたの呼びかけに「はい」と素直にすぐ答えられるものになれるよう、日々導いてください。世にあるたくさんの人々があなたへと導かれますように。イエス様の尊い御名により祈ります。アーメン


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