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2022年4月19日 ディボーション

ルカの福音書13章


「神の国と因果応報」


 神の国はどのような所なのだろう。このルカ13章の始まりは、神の国に対してこの世の出来事から始まる。この世の事故で災難に遭うのはその人達に罪があったせいで、いわばバチが当たったのですか? 今でも多くの人が災難の原因としてその人達自身に何か原因があったと考える。

 4節には、当時のエルサレムで発生した事故であろうと思われるシロアムの塔が倒れて、その下敷きになって亡くなった18名の事件がある。まるで新聞記事からの事故ニュースのように、その18人に罪があったのでバチが当たったのかとの質問に、主イエスが2度答えて、3節と続けて5節とも同じ答えで「そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」と質問に対する答えにならない返答のように見えるが、これは事故の原因よりもその後に彼らの身に起こる結果に焦点を当てている。そうして彼らに起こった滅びはやがて我々皆に起こる事で、大切なのはそれぞれが神に向かって悔い改めをする事の重要性を語られているのだ。


 悔いいる事と悔い改める事は異なる。誰でも自分の犯した間違えを後悔する事、「Sorry」という事は誰にでもある。ここで主イエスが言うのは「Sorry」ではなく自分の生き方を改める事だ。この世の全ての者が罪人であるため、この世での肉体の身体は滅びるけれども、悔い改めて主イエスを信じれば永遠の命が与えられるという返答なのだと思う。この世の悲惨な出来事は罪が原因ではない、因果応報ではなく、わたしのもとに来なさいと呼びかけられておられるのだ。

 次にこの章では、この世から神の国に視点が移る。我々は祈りの中で、「御国をきたらせたまえ」と祈る。御国である神の国は天の上にある遠く離れた夢のような存在では無く、この世に来る世なのだ。主イエスは「神の国は何にたとえたらよいでしょうか。」とここでは例話としてからし種とパン種をあげて話されている。

 主イエスのたとえ話はなんとなくわかるような気がするけれど、焦点がぼやけて自分にはハッキリと見ることが難しい。なので注解書や色々な先生の解釈を読むのだが、なかなか目からウロコが落ちるように理解する事が出来ない。しかし文の流れから読み取ると、決してここでの神の国はバラ色の完璧な天の上の楽園とは言われておられない。からし種が生長して木になっても、空の鳥(恐らくこれはサタン)が巣を作ったりするのが神の国、またはパンを作る時にパン種(イースト菌、人の罪を表す)が入ってきて、やがてパンが膨らむように罪が倍増すると説明されていると思われる。この世を離れた完璧なパラダイスを、神の国として示されてはおられない。


 それでは神の国は何を示すのか。黙示録にあります世界、主イエスが王として君臨される千年王国を神の国(the kingdom of God)と説明されておられるのだろう。ここには未だ完全に救われていない者たちも、救われている者たちも一緒に暮らすのだが、主イエスが王として君臨されて、エルサレムが世界の首都となる千年王国であり、やがて最後の審判があって死とよみもいのちの書に記されていない者は皆、火の池に投げ込まれる事になる前の世界を示していると考えられる。

 神の国はやがて行き着く永遠の約束の地、神と共に暮らすことになっている新天新地ではなくその前の世界、子羊イエスが統治される王国時代を主イエスは神の国として説明されておられるようだ。だからたとえ主イエスが統治される国でも信じない者や罪人もいて、空の鳥(サタン)が巣を作ったり、罪のパン種が広がってしまう様子をたとえ話で話されたと考えられる。


 しかし、いったいなぜ神は二度手間のような千年王国から新天新地という面倒な事をなさらずに、一挙に新天新地に引きあげて下されば良いのにと考えるのだが、実はそれほど我々の持つ罪が根強いのだ。その罪のはびこる世を、最後の最後まで救おうとされる神が我慢に我慢を重ねて、手を差し伸ばされておられるため最後の審判を待たれるのか。我々の信仰が火によって錬金されて純粋になってゆくように、千年王国も悔い改めを通じてやがて完璧な新天新地となること。そこには全ての信じる者たちが神と共に住む約束、最高の希望を示してくださった事に感謝したい。


祈り

 私たちの毎日の暮らしの中で言葉では「Sorry」を繰り返しますが、どうか生きる道を改めて主イエスのもとに向かう生き方に改める事が出来ますように、聖霊の手助けで正しい道を歩む事ができますように我々をお導き下さい。

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