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2022年7月11日 ディボーション

ヨハネの福音書6章 『主が導かれる目的地』 「それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。すると、舟はすぐに目的地に着いた」(21)   弟子たちは、夕方になって舟に乗り込むと、湖畔を下ってカペナウムへと向かった。強風が吹く中、向こう岸へたどり着こうと漕ぎ出す弟子たちのところに、イエスは、湖の上を歩いて舟に近づいて来られた。それを見て恐れた弟子たちにイエスは、「わたしだ。恐れることはない」と言われた(16-20)。  湖の上を歩く奇跡は、マタイ14:22-34、マルコ6:45-51にも記述がある。興味深いのは、それぞれの舟が向かった先である。マタイは「向こう岸」とだけ書いてあり、マルコは「ベツサイダ」、ヨハネは「カぺナウム」とある。  しかし、着いた所は「ゲネサレの地」、つまり、予定していた目的地には着いていないことになる。それでも、マタイ、マルコ、ヨハネは、舟は「目的地」に着いた、と書いてある。  これは、自分たちが向かった地へは行けなかったが、主が向かわれた「向こう岸」が彼らの目的地となった、ということなのだろうと思った。   嵐の吹き荒れる湖で、舟は流されるままに漂い、ましてや人間の力で方向を変えることなど不可能な状況であった。しかし、そこにイエスが湖の上を歩いて近づいて来られた。それを見た弟子たちは恐れたが、イエスだと分かると恐れは喜びに変えられ、風も凪になり、舟はすぐに目的地に着いたのである。

 日常のいろいろなことに、心揺るがされ、自分で何とか希望する方向へ行こうと、一生懸命に舟を漕いでも、着く先は、主が示される「向こう岸」であり、それが主の与える目的地であると知るなら、主に舵を握っていただき、ただ主を信じて嵐に身を任せることも、主のみこころにかなう信仰なのではないかと思う。  強風に見舞われて、行く先が見えなくなっても、主が共にいてくださると信じるなら、必ず、目的地に着く。主を喜んでお迎えするなら、すぐに着くことを覚えたい。   祈り:愛する天のお父さま。どんな時も、あなたが共にいてくださり、私に代わって舟を漕いでくださることを、ありがとうございます。主の御手にあって、私の心がいつもおだやかでいることが出来ますよう、助けてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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