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2022年7月16日 ディボーション

ヨハネの福音書11章


『イエスさま、心に憤りを覚える』


 なん年前か、初めてラザロのこの章を読んだ折、大いに不思議に思った。ラザロに関する情報がほとんどない。ベタニアの村人で、マリアとマルタの兄弟だというだけ。人物像はひとつも書かれていないし、ラザロ自身、声すら発していない。なのにラザロ一人の出来事だけに1章丸々、12章にも及んで記述されている。かなりの特別扱いではなかろうか。

 おまけにイエスさまはラザロを愛しておられた、という。聖書の中で、イエスさまが誰々を愛すと、特定の人物を名指しで愛しているという表現は、ほとんどないのではないだろうか? 

 しかもラザロの死に、「イエスは涙を流された。」(35節)。怒るのにおそく、平和にみちたイエスさまが泣いちゃったのである。

 当時パスターは、「英語では、Jesus wept. 聖書の中で一番短い聖句です」と教えてくれた。

 そして最高にして最大の奇跡、死人を生き返らせてしまった。

 なので私の印象は、「イエスさまを泣かせた謎の男ラザロの奇跡、聖書の中で一番短いギネス聖句」として残っていた。

 浅はかでしたね、信仰の薄い者でした。

 今回11章のみことばをじっくり聞いて、いたるところが味わい深かった。

 マルタとマリアはイエスさまを「主よ」と呼びかけている。早い時期にイエスさまをメシアと信じて信仰告白した姉妹だとわかる。

「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」(5節)イエスさまの愛は、感情的な肉の愛ではなく、アガペ、霊的な愛。特定の個人やキリスト者だけに注がれる愛ではなく、全ての万人に対する普遍の愛だ。

「しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。」(6節)

 愛しているがゆえに神さまに祈り、応答しながら神さまの時を待っていたのではないだろうか。神さまの偉大なる御業を見せるために。

 死に対する理解も深まった。「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。」(11抜粋)

本来、死は終わりではないから「眠っている」と表現するイエスさま。でも、アダムの罪によってもたらされた死は、人と人を引き離し、悲しみをもたらすようになった。

「アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。最後の敵として滅ぼされるのは、死です。」(Ⅰコリント15:22〜26抜粋)

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(25節抜粋)

 みことばがストンとおさまった。アーメン

 そしてラザロの死に直面したイエスさまは、「心に憤りを覚える」。いつも平静なのに、激しく心を痛めるイエスさま。この「心に憤りを覚える」は、33節と38節で2回出てくる。

 どうして心に憤りを覚えたのか? 二択考えられそうだ。一択は、恐れと悲しみをもたらす死に対して2回、憤りを持たれたイエスさま。もう一択は、1回め、泣くマリアをあわれんで心を騒がせ、2回め、死に対して憤った。う〜ん、日曜礼拝の後、誰かと分かち合ってみよう。

 そして、ラザロを死からよみがえらせたイエスさまの御業を聞いた祭司長やパリサイ人は、47節以降、イエスさまを殺すことを企てる。しかし、そんな石頭の祭司さえも神さまは用いて、正しい預言をさせる。すごいなあ、聖書はつくづく濃くて深い。

 神さま、ヨハネの11章にはまだまだグッドニュースが詰まっています。浅はかな私は恵みを受け取りきれていません。でも次に聞くときには、ひとつでも多くの恵みを手のひらに乗せていただけますよう必要を満たしてください。イエスさまのお名前で感謝して祈ります。

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