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2022年7月26日 ディボーション

ヨハネの福音書21章


『福音の末広がり』


 いよいよ福音書の終わりの21章です。ここは復活された主イエスが夜どうし漁に行っていた7人の弟子たちに湖畔で朝ご飯を用意して待っておられ、そこでペテロに3度わたしを愛しているか? と尋ねる場面です。まず始めに福音書全体の流れ、特に4福音書のそれぞれの終わり方に注目してみましょう。

 マタイの終わりは主イエスの墓からのよみがえり、復活が最後の28章の場面、マルコの最後は主イエスが天に昇る姿の昇天(マルコ16章19節)の場面、ルカはさらに進んで聖霊を与える約束(ルカ24章49節)をされ、このヨハネ21章では主イエスが弟子達に特に愛弟子ペテロに向かって再び主イエスが戻ってくる再臨の話しをされたのをイエスが愛された弟子ヨハネが聴きとって記述しています。(ヨハネ21章22節) 。

 このように福音書は復活-昇天-聖霊-再臨と主イエスの恵みが将来にわたる末広がりを順番に示されている事に驚かされます。それに福音書が4巻あることも偶然ではなく意味があると思えます。山のような存在である救い主イエスを東西南北から描いています。

 思えばこの世には四隅あるわけですが聖書には完全数と言われている数字が盛り込まれています。まず創世記2章10節「一つの川がエデンから湧き出て、園を潤していた。それは園から分かれて、四つの源流となっていた。」聖書の数字で4はこの世を代表し、3は三位一体の天を表しているですから4+3の7は完全数であり3x4 の12も完全数となります。そもそも偶然かもしれませんが、不思議なことに聖書には旧約は39巻で3で割れますし、新約は3の3乗 27巻であるのも不思議です。カソリック聖書は72巻ありますがこちらも3で割れます。話しがまた外れましたが本題の21章に戻ります。


 イエス様が湖畔で漁に出た弟子達が手ぶらで戻って来た姿をご覧になって声をかけ、ここには7人いた弟子達は沖で舟の右側で漁しながら湖畔に立つのは我が主イエスと気付いたわけですが、ペテロさん、その時嬉しさのあまり思わず飛び込んで主のもとに泳ぎついた様子が生き生きと描写されています。主イエスを3度も知らないと言ったペテロ、焚き火の前できっとモゾモゾしていた事でしょう。一晩中釣りをしていた弟子達に主は朝食を用意されて身体を温めて落ちついた時にペテロに「わたしを愛していますか。」と3度も問われている話しは有名ですが、その後に主がペテロに語りかけている言葉に今日は注目してみましょう。

 15節の最後「イエスは彼に言われた『わたしの子羊を飼いなさい。」」16節『わたしの羊を牧しなさい。』17節『わたしの羊を飼いなさい。』ここでは微妙に言葉が変わっています。他の訳では『養いなさい』ともなっていますが、まずは大人になっていない子羊、信仰が薄い者たちを養い、飼いなさい、手間暇かかるけれど面倒見てあげなさいと言う意味で子羊と言ったのではないでしょうか。次に羊を牧しなさい。教会では牧師先生がおられますが牧師という言葉はこの牧する、牧場の管理人からきた言葉ですね。羊は牧童の声を聴き分け緑の牧場や水場に連れてってもらい、外敵 狼から守ってもらう、自分で戦う事も防御力もない、目も近視な動物で人間と実に似ています。主はわたしの羊と言っておられるのです。自分を信じているクリスチャンたちを牧しなさいとペテロに伝え、最後に念を押すように『わたしの羊を飼いなさい。』守って導きなさいと示しながら、これから起ころうとしているペテロの神に栄光を示す死にざまも示しながら、わたしに従いなさいと復活の身体を3度も弟子達に現されたのです。三位一体の神がひとつであるように愛する弟子たちもひとつになるためでした。

 弟子達が一つになる事によって世がキリストを信じ、イエスの栄光を知るためでした。

 最後に再臨のみことばですが22節「イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」」ここにわたしが来るときまでと再臨を話されておられます。

 聖書はまことに真理のことばです。 創世記は世界の始まり、人の始まり、罪の始まり、全ての始まりと崩壊を示し、黙示録は新天新地で全ての完成を示していて、永遠から永遠への書物ですから奥が深いのです。みことばの深さは測りきれません。自分の命を差し出して主に従った福音記者達に心から感謝致します。彼らの真剣な祈りは聴かれます。彼らの祈りは単に言葉だけではなく十字架を負った祈りだったからです。果たして真剣な祈りに必要な私たちの負うべき十字架は何でしょうか?


祈り

ヨハネは他の福音書のまとめとして皆んなが福音書を読む進む中でやがて読者は決断を迫られて来る事を想定していた。それは十字架の主の愛を信じて救われるか、それとも否定して滅びるかの選択の道をはっきりと示して決断を迫る気迫を読み取れます。ヨハネは世の光であり、愛である主イエスを通じて永遠の命を得るために福音書を完結させて下さいました。確かに主イエスは神の子であり人の子となってこの世を救いに来て下さり、さらにもう一度再臨される事を信じます! アーメン


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