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2022年7月4日 ディボーション

イザヤ書65章

 

『わたしはここだ』

 

「わたしを尋ねなかった者たちに、わたしは尋ね求められ、わたしを探さなかった者たちに、わたしは見出された。わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った。」(1)

 

  1節にある「わたしを尋ねなかった者たち」「わたしを探さなかった者たち」と「わたしの名を呼び求めなかった国民」とは、異邦人のことである。イスラエルの民が神に逆らい続けた結果(2-7)、神の救いの御手は、いよいよ異邦人に与えられるのである。

 

 イスラエル人たちの不信仰によって、異邦人に救いがもたらされるようになるが、これは創世記にあるアブラハム契約の成就である。イスラエルの民は、確かに祝福のもととなり、「地のすべての部族は、あなたによって祝福される、」(創世記12:3)と神が約束された通り、彼らによって異邦人に救いの道は用意されたのである。

 

 異邦人に「救い」がもたらされた理由は、イスラエルの民にねたみを起こさせるためである(ロマ書11章)。

 そして、異邦人であろうと主を求める者、また主のしもべと呼ばれる者には祝福が、イスラエルの民であろうと主を捨てる者たちには、さばきがある、と語られたのである(10‐15)。

 

 神は聖なるお方であるから、罪を野放しにしておくことは出来ない。しかしだからといって、無残に何も語らず、愛する民をさばきに合わせるようなこともなさらない。

 何度となく逆らい、神を悲しませるようなことがあっても、神はすべてを滅ぼさず、必ず、救いの道を用意してくださり、悔い改めて御許に帰って来る者たちを喜ばれる。

 

 頑なで、自分の考えのまま、良くない道を歩む者たちに、神は終日、その御手を差し伸ばしている、と知るとき、自分は何と、愚かな者なのだろうと思う。


 目の前に差し出されるものに心を奪われ、自分で何とかしようと切磋琢磨を繰り返しては心身ともに疲れ果てる。同じことを繰り返しては、自己嫌悪に陥り、神に泣きつく様は、聖書に描かれるイスラエルの民と全く同じである。

 自らの意思で、差し出された御手を振り払っておきながら、なんと身勝手で、わがままな者なのだろうか。

 

 神は毎日、「わたしはここだ、わたしはここだ」と言って手を伸ばしておられる。その御手を振り払うことなく、神にすべてを委ね、その恵みの中で生きる幸せを味わう者になりたい。

 

 祈り:愛する天のお父さま。あなたの御手が今日も私に差し出されていることをありがとうございます。あなたにすべてをお委ねします。あなたの用いやすい器に、私を造り変えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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