エレミヤ書40章
とうとエルサレムとユダがバビロン捕囚となった。
40章では、バビロンの親衛隊の長であるネブザルアダンのエレミヤに対する温厚なる対処、そしてエレミヤの選択などが示された。
バビロンの親衛隊長であるネブザルアダンは異教の人でイスラエルの神を信じていないけれども、このバビロン捕囚の事をとおして、主がなされたことが成就されたことを認めているのである。ユダヤの民でさえ信じようとしなかったのに、この異教の人は彼らをはるかに上回るほどに神を知っていたのではないだろうか。2節から4節までのネブザルアダンがエレミヤに語ったことばがとても心に響かされた。
親衛隊の長はエレミヤを連れ出して、彼に言った。「あなたの神、主は、この場所にこのわざわいを下すと語られた。そして主はこれを下し、語ったとおりに行われた。あなたがたが主の前に罪ある者となり、その御声に聞き従わなかったので、このことがあなたがたに下ったのだ。そこで今、見よ、私は今日、あなたの手にある鎖を解いて、あなたを釈放する。もし私とともにバビロンへ行くのがよいと思うなら、行きなさい。私があなたの世話をしよう。しかし、もし私と一緒にバビロンへ行くのが気にいらないなら、やめなさい。見なさい。全地はあなたの前に広がっている。あなたが行ってよいと思う、気に入ったところへ行きなさい。」2~4節
なんという温厚なる語りだろうか。鎖を解いて釈放しただけでなくバビロンに行くもよし、やめるもよしとエレミヤに自由な選択をあたえたのである。
エレミヤが選んだのは、ミツパにいるアヒカムの子ゲダルヤのところに行って、残された民と共に住むことだった。バビロンに行けばなに不足ない暮らしがまっているはずだろうに、あえて残された民と住むという選択をとったのは、エレミヤのユダに対する愛からでたことである。それは、イエスさまの十字架の愛そのものにつながっていくことではないだろうか。もし自分が自由になった時に、自分だったらどうするかと考えさせられるところである。
祈り
愛する天の父なる神さま。
ご自分の民に、何度も語っても聞き入れなかった裁きを下された時の気持ちが、如何ほどだったかと想像を絶するものであります。異教の人で、イスラエルの神を知らない人でもわかるはずのことを、なぜ民はあなたの御声に聞き従うことができなかったのかと思わされます。今の時代も旧約と変わらないことが多々にあります。あなたの御声に聞き従うことができない人々にどうぞ私達を用いて下さい。大胆に語ることができるようにその道を歩ませて下さい。恐れを取り去って下さい。勇気を与えて下さい。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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