この20章には、メリバの水、エドムによる妨害、アロンの死と、どれも興味深い出来事が記されている。
その中でも、モーセとアロンが約束の地に入ることが出来なくなった原因である、メリバの水の事件に心がとまる。
「イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現わさった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」(12)
モーセとアロンの何が、神の聖を現わさなかったのか? 主は、モーセに岩に命じるように告げられた(8)。しかしモーセは、岩を二度打った(11)のだ。
岩に命じるだけで良かったのに、岩を打ったのはなぜか? モーセはいい加減、この不平不満を言い続け、不信仰にある民に対して怒りを覚えていたようだ(10)。岩を打ったのは、その民に対する怒りの現れであったのだろう。
モーセとアロンは、神の聖なる栄光を現わすために選ばれた者たちだ。その者たちが怒りに任せて、神の御心ではない”怒り”を現わしてしまったのだ。
”短気は損気”と言われるが、まさにその通りである。
モーセは、イエスのひな形である。やがて来られるメシヤ、イエス・キリストを指し示している。モーセは、民の罪を負ったのだ。そして、その罪と共に荒野で死んだ。それはイエスが人類の罪を負って十字架で死なれたことを現わしている。
そして岩とは、イエス・キリストのことである。
1コリント10章4節「彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。」
岩を打ったということは、イエスを打ったのである。「イエスを十字架につけたのは誰だ?」、それは岩を打ったのは誰なのか? ということである。
私が岩を打った者である、つまりイエスを十字架につけた者であると認めるとき、その者に命の水が与えられる。
モーセの行為は、その事を指し示しているのだ。
民数記は、荒野の中に散りばめられているイエス・キリストという宝物を発見する旅のようだ。一見、砂漠で何も無いように見えるが、その中にイエスという宝物が隠されている。この20章の荒野でも、イエスを発見することができた。まさにこれこそ荒野の恵みである。
天の父なる神さま
私たちは、荒野でイエスさまに出会います。岩を2回どころではない、何度も何度も打ってしまうような私たちです。しかし、その打たれた岩から水が湧き上がります。
十字架は私のためであったと知るとき、そこにいのちの水が湧き上がります。主よ感謝します。 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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