『青銅の蛇』
21章はイスラエルの民がホル山からモアブの草原に至るまでの旅の様子が記されている。いろんな国との戦い、戦いを避けるための遠回り、戦わざるをえなくして戦ったことなどが記されている。
カナン人の王との闘いでは、カナン人はイスラエルの民に攻撃をしかけ、何人か捕虜として捕らえました。そこで民は主に誓願をして反撃し、カナン人の町々を聖絶したのである。
エドムとの戦いを避けて北の方角に進んだイスラエルの民が、またもやモーセに逆らったことが述べられている。そこで主は、燃えるような痛みを与える蛇が送られたので多くの者が死んだのである。民は罪を認めて悔い改めました。
その時、蛇の毒に苦しむ人々を救ったのは、青銅の蛇を仰ぎ見る信仰でした。青銅の蛇を仰ぎ見ることは、主イエスの十字架の贖いのわざを見上げることであると言われています。新約で、主イエスは、自分がこの蛇のように十字架につけられることを予告されていたと述べられている。
キリスト教において蛇という生き物は人間に原罪をもたらしたもので、信仰と畏怖の二面性をもつものだと言われています。また蛇は、脱皮を繰り返すので死と再生の象徴でもあると言われています。世界各地で神として崇められる一方で、恐ろしい毒をもって人々に災いをもたらす存在でもあります。このような、人に災いをもたらす生き物をどうして神として崇めることができるのか、今更ながらに偶像礼拝の恐ろしさを知る思いである。
余談になったけど、イスラエルの民は、戦いを避けるためにモアブの国を迂回して遠回りをしたのである。その時は、イスラエルの民は不平を言わなかったと思われる。それゆえ、主はそのような彼らを祝福し、ベテルでは、主ご自身が豊かな水を出す井戸を与えられたのです。主の目にかなうことを行えば、主は、大いなる祝福を誰にでも与えられるのである。
愛する天の父なる神さま。 御名をほめたたえます。荒野を旅するイスラエルの民と共にいてくださり、彼らの不平をお聞きになっても忍耐して見守っておられる姿は、今の私たちそのものでもあります。イスラエルの民が青銅の蛇を仰ぎ見る信仰で救われたように、私たちも主イエス・キリストの十字架への信仰を忘れずに歩むことができますように導いてください。感謝して、委ねて、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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