アモス書 2章
『悔い改める心をいただく』 アイゾン直子
前章に引き続き今回アモスは、モアブ、ユダ、そしてイスラエルの罪を明らかにしていきます。モアブについては、彼らがエドㇺの王の骨を焼いて灰にした罪、ユダについては、彼らが主のおしえを捨てて、その掟を守らず、父祖たちが作った偶像に従った罪について、そしてイスラエルについては、1)金と引き換えに正しい者を売った罪、2)弱い者、貧しい者を不当に扱った罪、3)子とその父が同じ女と交わるという不道徳の罪、4)貧しい者から衣服までも質に取り上げるという非情の罪、5)罰金で取り立てたぶどう酒を、彼らの神の宮で飲むという不敬虔、また放縦の罪を明らかにしました(1‐8)。
イスラエルの罪の記述が最も多い理由は、それが主の啓示であったからです。アモスは、ユダの田舎町テコアで羊の世話をしながら、イチジク桑を栽培する農夫でした。そのような生活の中、彼はある日主から、『行って、わたしの民イスラエルに預言せよ』、と語られたのです(アモス7:14‐15)。預言者としての学びや知識などない彼にとって、この召命は大変な重荷であっただろうと想像します。誰しも経験のないことをする時は二の足を踏むと思います。あのモーセでさえ言い訳をして、神の召命を何度も断り続けたのです。しかし彼は、召命を受け、預言者としてイスラエルに行きました。
当時のイスラエルの町はヤロブアム2世の時代で(アモス1:1)、北王国の歴史の中で最も栄えていたと言われています。そのような都会に、ユダの田舎から来た羊飼いが、主のことばを伝えに行ったのです。預言者でもない人から罪とさばきについて糾弾されて、だれが真剣に受け取ったでしょうか。これまでも、北王国にはエリヤ、エリシャ、ヨナ、ヨエルといった預言者たちが、アモスと同じように主のことばを伝えたのです。しかし彼らは預言者に預言するなと命じました(12)。主のことばを受け入れないイスラエルに残されているのは、もはやさばきだけです。しかし、私たちが慕う神は、罪=さばき、の神ではありません。
9節から11節で、アモスはこれまでの主のみわざについて語っています。主は、400年に及ぶ奴隷生活からイスラエルを解放し、彼らが約束の地に入国するまでのすべてにおいて彼らを守られました。そのみわざを忘れるな、主以外にあなたを守ることの出来るものは何もない、ということを民に思い出させるためです。だから悔い改めよ、主に立ち返れ、というメッセージです。
私たちの愛する主は、罪をさばく神ではありません。罪を明らかにされますが、その目的は悔い改めに導くためであって、決してさばくためではありません。私たちが子どもを躾ける時に、ただ謝らせるだけでは問題の解決にはなりません。なぜそれがいけないことなのかを本人が理解し、認めることをしないなら、子どもはごめんなさいと言えばいいことだけを学ぶことになります。謝罪の前に、認罪が必要なことは現在の法システムからも明らかです。
先日カピオラニ通りで、16歳の女の子が亡くなる事故がありました。高校へ行く途中、ひき逃げに遭ったのです。車を運転していた男性は逃げた後、更にその車を捨てて逃走を続けました。しかし数日後、自ら警察署に出頭しました。彼の犯罪歴を調べたところ、なんと164件もの交通違反が見つかりました。無免許運転を含め、数々の交通違反を繰り返していて、犯していないのは飲酒運転だけだということでした(Hawaii News Now)。
16歳という若い命が奪われたことは、本当に痛ましいことです。事件や事故に巻き込まれて家族を失うなど、自分には到底想像もつかないことです。けれども、この男性は164回にわたって罪を明らかにされていたのです。もし彼が、示された罪を真剣に受け取っていたなら、16歳の少女の命は守られていたと思うと、日頃示される罪の大小に関わらず、すべて罪と認めて悔い改めることの大切さを思わされました。
聖書や牧師のメッセージを通して示された罪に対しては素直に認めても、近しい人や、尊敬できない人、クリスチャンでない人などから示された罪に対しては攻撃的になって全く耳を貸さない自分は、アモスのメッセージを聞き入れなかったイスラエルと同じだった、ということに気づかされます。人ではなく、その背後で働かれている主を仰ぎ見る心がないのです。これは大きな祈りの課題です。
私たちが信じて従う神は、罪を明らかにしてそれをさばく神ではありません。私たちが愛する神は、罪を明らかにすることで悔い改めへと導き、そしてそれを赦し、きよめてくださる神です。求められているのは示された罪を認める悔い改めた心です。私たちが気づいて赦しを求めるまで、主は忍耐して待っていてくださいます。何度でも、あらゆる方向から私たちをきよくし続けてくださいます。聖霊の助けのもと、更なるきよめを祈りたいと思います。
祈り:愛する天のお父さま。アモス2章から、罪を明らかにすることによって、神のきよさに近づくのだということを学びました。しかし中には、認めたくない罪を示されることもあります。しかし、それらを放っておくのではなく、示していただいたことに感謝し、悔い改めの祈りをささげたいと願います。どうか、一日のうちのいつでも、そのような悔い改めの祈りをすることができますよう、導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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