アモス書 7章
『今、主のことばを聞け』
7章にはアモスが見た3つの幻が記されている。1:いなごの幻(1〜3節)、2:焼き尽くす火の幻(4〜6節)、3:下げ振り(測り縄)の幻(7〜9節」だ。
アモスは「見よ」(1節や4節で)と驚きながら伝える。アモスが生きている時代、イスラエルは天下泰平、大惨事など想像できないのだ。でもアモスは神さまの絶対的な主権を信じきって、霊の目で見ることができた。
今現在、3週間以上も続いているアズベリー大学のリバイバルも、神さまを信じて神さまの御元で悔い改める霊の目が働いているということなのだろう。
そしてアモスは幻が実現することを、「お赦しください。」(2節)と、イスラエルのために神さまに必死にとりなす。イスラエルを弁護するのではなく、ただただ「赦し」を乞う。まるで自分が滅びに直面しているみたいに、ひれ伏しながら神さまのあわれみを乞うた。
神さまにも、隣人の友にも、ごめんなさいと謝る時、弁解はやめようと今更ながら襟を正した。アモスを見ならうのだ。
神さまはアモスのとりなしを聞いて、いなごが襲撃すること、火が焼き尽くすことを、「主はこれを思い直された。そして「そのことは起こらない」と主は言われた。」
と、3節と6節で繰り返しながら、2度も赦してくださった。
神さまはイスラエルを「わたしの民」(8節)と呼ぶほどに愛しておられるが、測り縄でイスラエルを精査することはやめないし、手加減もしない。神さまの義に、さばきの中止も撤回もあり得ないのだ。
アモスは辛い宣告を預言し続ける。
7章の後半。神さまを信じ、神さまに用いられているアモスを、ベテルの祭司アマツヤは上から目線で非難する。「二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の宮だからだ。」(13節抜粋)と、最大限の侮辱をする。げに聖職者の嫉妬は恐ろしいものですね〜。
でもアモスは1mmも動じない。
「アモスはアマツヤに答えた。「私は預言者ではなかったし、預言者の仲間でもなかった。私は牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた。しかし、主が、群れの世話をしていたところから私を取り、主が私にこう言われた。『行って、わたしの民、イスラエルに預言せよ』と。今、主のことばを聞け。あなたは『イスラエルに向かって預言するな。イサクの家に向かって戯言を言うな』と言っている。」(14〜16節)
引用が長くなりましたが、私たちキリスト者はこうありたいと痛感した。アモスの時代、羊を飼う牧者は最下層の人であったし、いちじくのように美味しくない、”いちじく桑の木”の実もまた、貧者の食べ物であったようだ。そんな取るに足らない小さき者であっても、神さまが用いてくださるなら、権力や人を恐れず、神さまの立ち位置を離れないアモスのようでありたい。。
ハワイのように豊かな自然環境の中で暮らしていても、聖日礼拝に出席できる恵みがあっても、私はアモスと同じ貧しき小さき者であると、教えてくださってありがとうございます。
レントの日々、イエスさまのお名前で感謝して祈ります。アーメン
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