「宣教師、使徒、教師であるパウロ」
使徒パウロは新約聖書の半分近くを書いてくれました。ローマ書から始まってピレモンへの手紙までの書巻です。新約聖書の構造は全体として真理の橋(アーチ)を形作っている(バクスター師著)、4つの福音書と使徒の働きは、旧約聖書のモーセ5書に倣うかのように、新約の橋の土台で、すべてその後に続く新約聖書の書簡の土台となっている、橋の土台の福音書。
次に続くパウロの9通に書簡(ローマ書、コリントIとII、ガラテヤ、エペソ、ピリピ、コロサイ、テサロニケIとII、はキリスト教の教理及び真理を、異邦人クリスチャンに向けて書かれています。
残りのパウロの書簡は個人宛に書かれた4通、テモテI、IIとテトス、ピレモンで最初の3通は特に牧会書簡と呼ばれています。
パウロ以外が書いた書簡、つまりヘブル人への手紙から始まる残りと、黙示録も含めて9通は、ユダヤ民族、ユダヤ人クリスチャン向けの手紙だとバクスター師は解釈されています。
新約聖書を、この様に異邦人向けとユダヤ人向けに2つのグループ分けする事ができるそうです。福音書の土台の上に、片方のアーチはパウロの9通の異邦人向けで、もう一方の最後の9通のアーチはユダヤ人クリスチャン向けのアーチでその2つのアーチを結び合うのは、真ん中にあるパウロの牧会書簡、いかに教会内でユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンをひとつにまとめるべきかを、新約聖書の真ん中に入れてあるという事からわかると言うのです。
何という美しい橋を主イエスはかけて下さり、向こう側から私達に手を差し伸ばされていることか。シドロー・バクスター先生は、実に美しい、新約聖書の構造を見事なアーチ橋に見せてくださったのです。
ですからパウロが、この新約聖書の真ん中にある牧会書簡で愛弟子テモテに伝えたかったのは、主イエスの愛による、主の花嫁である教会の中での人々が主によってひとつになる目的と方法を伝えているのです。
Iテモテ2章4節「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」
言うは易し、行うは難し。パウロは初代教会内の信徒達の争い、異邦人クリスチャンとユダヤ教から改宗したクリスチャン達の間には争いがある事を知っていました。そこでパウロはテモテを通じて戒めを与えています。
8節「そういうわけで、私はこう願っています。男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい。」11節「女は、よく従う心を持って静かに学びなさい。」
初代教会は外からの迫害だけでなく、内部での問題もあるようです。年若いテモテの手にはあり余る状態だと、心配しているパウロの様子が窺われます。
2章で一番パウロがテモテと教会員に伝えたかったのは、恐らく5節「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。」
この主イエスを伝える事、私達に与えられた使命は、主と一つになって進み、神の福音を伝える宣教なのですが、なかなか現実は厳しい。
ところがIコリント1章21節に明らかにされているように、罪ある私達、時には愚かで偽善者の様に思われてしまう小さな私達なので失望しやすい私たちなのですが 「神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通じて、信じる者を救うことにされたのです。」
私たちは諦めずに、主イエスの救いの手はすべての人々に伸ばされていて、信じる者には永遠の命が与えられるという福音を述べ伝えるのが、本当の生き甲斐、喜びにつながってゆくのです。
さて一言、これをうちの家でそのまま言ったら、大ごとになりそうですが、言ってみたいみことばは12節「私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。むしろ、静かにしていなさい。」ご主人どもよ 家の中の見えないところにでも貼っておきましょう。
祈り
私たちが祈る相手は、父なる天の神ですが、神と人との仲介者はただ1人である主イエスなので、主イエスの名によって祈らなければ、神に届く祈りとはならないのです。
我が父なる神よ、どうか私の役目がこの世にて果たせますように、主イエスの名によって祈ります。アーメン
Commentaires