『ヨセフは落とされた』
創世記37章から50章は、38章のユダの物語を除いて、すべてヨセフの物語です。このヨセフの物語を通して、神は、人をもとの位置よりも高く高く上げるために、その人を最低のところまで陥れられるということ、またその継続する艱難苦難の状況の中でも、いつも一緒にいてその人を慰め、希望を与え、励まし、導かれるということが学べます。
ヨセフの物語の最初の37章の主題は、「ヨセフと兄たちとの間の仲違い」です。この仲違いが原因で、ヨセフは下へ下へと追いやられ、挙句の果て、どん底に陥れられます。
第一の原因は、ヨセフは非常に純粋で正直であったようです。ある時兄たちの悪いうわさを父親に告げました。これは兄たちの怒りを買うことになったのでしょう。
第二の原因は、ヤコブの偏愛です。ヤコブには、12人の子どもがありましたが、最愛の妻ラケルから生まれた年寄り子であるヨセフを、他の兄たちよりも可愛がりました。そして彼にそでつきの長服を着せました。これは、他の兄たちを差し置いて、ヨセフを相続人候補にすることを意味するものだから、兄たちは当然嫉妬し、妬み、「穏やかに話すこともできなかった」のです。
第三の原因は、ヨセフはまだ17歳という若さで、社会経験もあまりなく、その考え方は幼稚で純粋で、また他人との交わり方に対する経験が浅かったのでしょう、そして偏愛されて高慢になっていたのかも知れません。
ある時、ヨセフは二つの夢を見ます。この二つの夢の中で、兄弟たちが、また両親さへも自分を礼拝していることを、何のためらいもなく、それが彼らを更に妬ませることなど予想だにしないで、兄たちに告げます。彼らは更にヨセフを憎みました。父親さえも、妬みはしないまでも、不愉快になったみたいです。
この夢はヨセフにとっては神からの大事なお告げであり、これから通り抜けなければならない苦難の中での神の支えであり、将来への希望であり、灯台の光だったのです。
これはキリストが十字架の苦しみを忍ぶことのできた理由と同じです。「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(へブル12:2抜粋)
ヨセフはどん底に向かって更に降下していきます。兄たちがシェケムで父の羊を飼っていた時、ヤコブは、兄たちとまた羊の群れが無事かどうか見てきてほしいとヨセフを送り出します。シェケムにいた兄たちは、遠くからヨセフが長服を着てやって来るのを見て、この時とばかりに、日ごろからの憎しみがついに殺意に変わり、彼を殺してしまおうと相談します。
しかし最年長のルベンは、それに反対します。それで兄弟たちはヨセフの着物をはぎ取り、彼を捕えて,穴に投げ込みます。しかしその穴には水がありませんでした。そしてもう一人の兄ユダもヨセフを殺すことに反対して、それよりイシュマエル人に売ろうではないかと意見します。そしてヨセフは通りかかったイシュマエル人の隊商に銀貨20枚でエジプトに奴隷として売られます。ルベンの忠告やユダの意見には、ヨセフへの神からの秘かなる守りがあったようです。
兄たちは山羊の血を着物に浸し、ヨセフは獣に食われて死んだと父に報告します。父ヤコブは自分の最愛の子が死んだと聞かされ、幾日もその子のために嘆き悲しみました。
こうして奴隷としてエジプトへ売られたヨセフは、この章の初めのヤコブの相続人として定められていたヨセフとは雲泥の差です。この降下はこの後の章にも更に続きます。しかしこのヨセフの降下は、創世記最後の50章に至るまでには、ヨセフとその家族は高く引き上げられ、更にイスラエル民族はエジプトに住み、増え、一つの国民を形成するまでに至ります。
結論として、ヨセフとその家族の艱難苦難は、これから続くヨセフの物語のその最後に、高く高く上げられるための神の準備だったのです。
最後に、このデボーションの準備のために読んだ数個の解説の中には、ここでは詳しくは書けませんが、ヨセフとキリストの間には数々の類似点があります。新約聖書は教えていませんが、このヨセフをイエス・キリストの形であるということを言っています。兄の一人ユダがヨセフをイシュマエル人の隊商に売ったこと、また弟子のひとりユダがキリストを祭司長に売ったこと。
キリストは、この世を救うために天から送られて来られましたが、この世の人たちからは侮辱され、罵られ、憎まれ、ついにはあの惨い十字架で殺され、黄泉に下るというどん底まで陥れられました。しかしそれはすべて神の御計画で、高く高く天に上げられ、神の御座の右に着座するための準備でした。ヨセフはキリストの形(小型)でしょうか。
祈り:愛する天のお父様、ヨセフの人生から、またキリストの尊い十字架を思う時、私たちがそれぞれの人生を歩む中、色々と艱難苦難はありますけれども、私たちは、将来への灯台の光である御言葉を信じて、神が私たちを高く引き上げてくださることを心に信じつつ生きていきたいと思います。アーメン。
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