『モーセ 家族との再会』
聖書の人物名には、深い意味があります。しかし、この章に出てくるモーセのしゅうとはミディアンの祭司イテロとあるのですが、同じ人物が出エジプト2章18節では別名でレウエル、神の友と呼ばれていて名前が異なる理由がはっきりしないのです。学者によるとレウエル、彼は創世記36章4節にあるアブラハムのひ孫で、祭司イテロはレウエルが高齢なので代わりに立たれた伯父で、同じ血縁者で、保護者なのでしゅうとにあたるとの説もあるのですが、同一人物かどうかは別にして、どちらにしても、モーセのしゅうとはヘブル人ではなく、異邦人であるがアブラハムを通じての親戚という点は間違いなさそうです。
この祭司イテロがモーセの妻ツィポラ、一時はモーセに対してあなたは「血の花婿」と言って対立していた妻とモーセの息子たち2人を連れて、エジプトを出て近くの荒野にイスラエル民族を導いて来たモーセを訪ねて来た家族の対面する場面がこの18章です。
モーセはエジプトから逃げてミディアンの地、荒野で40年間暮らす中で、息子ができて彼の名前をゲルショム「私は異国にいる寄留者だ」と名付けて、異国に暮らす思いを表しました。もう一人の名はエリエゼル「私の父の神は私の助けであり、ファラオの剣から私を救い出された」長い名前ですが、すでに息子に名前を付けた時に、預言的であった事を覚えましょう。そうしてしばらく別れていた家族とここで対面するのです。神の働き、エジプトへの災い、奴隷からの救いから荒野での生活と次々に起こった大事件の途中に、憩いの時を神はモーセに与えたのです。
この異邦人であるイテロがモーセの話を聞いて告白するのです。
11節「今、私jは、主があらゆる神々にまさって偉大であることを知りました。彼らがこの民に対して不遜にふるまったことの結末によって。」と異邦人で異国の祭司イテロが信仰告白するのです。そうしてモーセに助言を与え、何十万人も居るヘブル人たちの裁きを、民全体の中から誠実な人たちをリーダーとして選び出して、小さな事件を裁くように勧めて、モーセはその助言に従います。まさにイテロは神の友の役目を果たしています。そうしてモーセの家族をモーセに託して、やがて自分だけ故郷のミディアンの地に戻って行くのです。
恐らく妻のツィポラも何十万というイスラエル民族を率いている夫、モーセを目の前にして今までの恨み、辛みは忘れて支えたのではないかと思うのです。主導者の妻として敬われる存在になったのではないでしょうか。主なる神は、このようにしてモーセに家族との憩いの場、和解の時を設けられたのではないかと思える場面です。
さて、この章では現在に通じる何かが語られているはずです、少々飛躍しすぎかもしれませんが、モーセの率いるイスラエルの民、黄海を中の海底の道を歩き渡る時に、数十万のイスラエルの民は全て、一人残らず水しぶきを浴びて、あたかも主なる神から直接、洗礼を受けたような経験をして、救い出されているにもかかわらず、神への信仰が足りないのです。 食べ物の事で不平を言ったり、偶像の神を拝んでしまったり、信仰の芽が育っていないのでさらに40年間、荒野をさまようことになるわけですが、この18章で信仰告白しているのは、異邦人イテロであり、神の友として助けの手を伸ばすのもイテロ、つまり異邦人が先に救われ信仰し、ユダヤ人は、うなじの硬い民と言われるように、今でも神の子、主イエスを救い主として信じるところまで至っていない。 そのようなイメージが与えられました。
祈り
どうか信じない者ではなく、信じる民とユダヤ人達が変えられて、主イエスが約束された再臨の日、主自らが王となって君臨される日が近づきますように、みことばを伝え続けられますように、私たちを導き下さい。 アーメン
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