「思い直される神」
ヤコブがイスラエルとなって、息子たちから12部族が起こされる、その中のレビ族からアロン、モーセとミリアムがおこされ、アロンの息子の中には異火を捧げて神に打たれて死ぬ者もいたが、祭司としてのレビ族の地位が確固たるものになったのは、この32章の場面からではないだろうか。
26節「そこでモーセは宿営の入り口に立って、『だれでも主につく者は私のところに来なさい。』と言った。すると、レビ族がみな彼のところに集まった。」
主につく者としてレビ族が集まった。主に聖別されることは、この世から切り離される特別な役目を負わされることでもある。宿営の中でドンチャン騒ぎをして、偶像礼拝をしてしまっている仲間、悪に染まった者たちを排除する役目を与えられる。宿営の中にはレビ族の兄弟、友達、隣人も居たわけだが、この日に約3千人がレビ族によって聖絶され、殺されたと悲惨な光景が偶像礼拝による結果として描かれている。十戒の最初の掟である、わたし以外にほかの神があってはならない、自分のために偶像を造ってはならない。という重要な掟を犯してしまった。しかし、何故か偶像礼拝を指導したモーセの兄であるアロンは無傷で済んでいるのも何か自分が思う公平とは、異なる神の裁きである事を思い知らされる。
9節「主はまた、モーセに言われた。『わたしはこの民を見た。これは実に、うなじを固くする民だ。』
そうしてモーセにわたしの怒りが燃え上がり、彼らを滅ぼすと言われたのだがモーセの嘆願、イスラエルの民のための仲裁役として、神へのお願いが続く。この場面はアブラハムが甥のロトが住むソドムを滅ぼそうとした主に、正しい者が50人、いや最後には10人居れば滅ぼさないと約束を取り付ける姿(創世記18~19章)を思い出します。
もしも、私達の信ずる父なる神に欠点というと畏れ多いが、人間的に考えて弱みがあるとすれば、神は私達、神の子を徹底的に愛して下さっているという事かもしれない、何故ならば、この父なる神は思い直される神であることがはっきりとここに記されている。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。とモーセは嘆願して滅ぼす事を、主は思い直された。
祈り
父なる神は、私達への愛ゆえに、当然受けるべき罪を思い直されてくださる。私達が悔い改めて、御子イエスにすがる時に、主イエスは私達のために弁護人となり、仲介して下さる役目をして下さる方。何と心強い助け主を私達に送って下さったことに心から感謝致します。
アーメン
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