『食物規定』 アイゾン直子
主は、イスラエルの民を聖なる者とするため、祭司を含む、すべてのイスラエルの民に対して食物規定を義務付けられました。きよい動物は食べてよく、きよくない動物は食べてはいけないという定めは、恵みの時代に生きるクリスチャンにも霊的な意味で与えられていると思います。それは聖書のみことばを食べなさいという教えです。主がモーセに与えた食物規定をもとに、私たちに与えられている霊的食物規定について紹介したいと思います(霊的食物規定についての解釈は「Bible Study KingComments」を参照しています)。
食べてもよいとされた動物はひづめが分かれ、尚且つ、反芻する動物でした。どちらか片方ではいけません。両方が備わっていないといけません。これを霊的に捉えるなら、聖書をよく読むこと、何度でも反芻するように読むことで、そこに書かれてあるみことばが血となり肉となり、信仰生活の歩みも安定します。みことばをよく読んでも、実践が伴わないなら、みこころにかなう歩みをしているとはいえません。両方が備わっていないといけないのです。
次にヒレと鱗がある魚は食べてもよいとされました。ヒレも鱗も共にみことばを象徴しています。聖書で「海」は、ヨナやパウロが難船したように、困難な状況や試練を表す言葉として使われています。しかしそのような状況にあっても、みことばはその流れに逆らって私たちを正しい方向へと導き、周囲の間違った影響から身を守ってくれます。
次に鳥ですが、聖書で「鳥」は巻かれた種を食べたり、成長したからし種の木に巣を作ったりするなど、悪霊を助ける生き物として登場しています。これらの鳥は私たちの信仰の芽を摘むために飛び回っています。ただし羽があっても、跳ねるものは食べてもよいとされています。いなごとかコオロギとかバッタの類が食べてもよい物たちです。これらは栄養価に優れていて、バプテスマのヨハネも食べていました。みことばに養われているなら、見えない悪霊との戦いにも勝利できます。
次に死骸(汚れたもの)に触れてはいけないことが命じられています。汚れたものは食べていけないだけでなく、触れてもいけないのです。聖書のみことば以外の言葉を信じるなら、私たちの内は汚れてしまいます。それは、見たり聞いたりしただけでも汚れてしまうといいます。みことばによって絶えずきよめていただくことの大切さがここにあります。
最後に腹で這うもの、四本足で歩くもの、多くの足のあるものは食べてはならないと命じています。これらは「地に住む者たち」と黙示録で呼ばれていて、いわゆる、この世を住みかとする生き物たちです。そのような生き物を食べるということは、この世の価値を追い求めることになります。パウロが「上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません」(コロサイ3:2)と教えたように、この世を愛するということは、霊的な汚れを招くことなのかもしれません。みことばによるきよめの大切さがここにもあります。
聖書の神は、みことばを食べなさいと言われます。それは口には蜜のように甘いのですが、腹には苦いのです(黙示録10:10抜粋)。私たちはみことばを通して、まだ見ぬ御国へと思いを馳せますが、そこにたどり着くまでの道のりは決して甘くはなく、苦いのです。それでも神は、聖書を食べなさいと言われます。なぜなら、みことばだけが私たちを生かす唯一の食べものだからです。
祈り:愛する天のお父さま。聖書を読むこと、表面的にではなく、じっくりと味わって、何度も何度も読んでいくことの大切さを学びました。時代は常に発展していくことを望みますが、私は永遠に変わらない主のみことばに留まりたいと思います。この世の思いから守り、きよめてくださいますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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