『贖罪の日』
今日の個所は贖罪の日についてである。大祭司が、どのような服装で、またどのような手順で、何によって宥めを行うのか神様が教えてくださっている。先に大祭司アロンの子どもたちが異なった火を献げたことで、いのちを失ったという例があったので、アロンも同じように死んでしまうことがないようにと警告から始まる。それは神様に近づくとはどういうことなのかを教えると同時に、神様の聖さとは、想像を絶する、少しの汚れも寄せ付けることができないほどのものなんだということを深く印象付ける。
レビ記を16章まで読んできたが、ここまでずっときよめに関してのささげ物や、汚れから遠ざかることについて細かく教えて下さっていた。そこには人間の考えが入る余地はなく、神様の方法に従うことが求められる。汚れときよさ、神様こそ神様であるということを認識させられる。
私がそこに生きていたら、愛の神様というよりも全知全能の恐ろしい神様としか思えなかったのではないかと思う。でも、この頃神様は愛の関係を築くためにまず、人々に神様に対する畏敬の念と、きよさを求める心を教えようとして下さっていたのかなとも思う。
「今は恵みの時、今は救いの日です。」(IIコリント6:2)
今は本当に恵みの時だなと思う。神の御子であるイエス様が大祭司となって、ご自身を宥めのささげ物として献げて下さったから、私たちは永遠に贖われたのだ。だから、今神様との愛の関係を生きさせていただくことができる。私たちは神様を求めるとき、パジャマのままでも罪あるままでも神様!と祈り、近づくことができる。いつでも、どんな場所にいても、ありのままの自分をさらけ出し、赦しを、癒しを、慰めを、導きを求めることができる。
天のお父様、あなたは今も昔も変わらないお方。罪を決して寄せ付けることができないお方。それでも、私たちを愛して下さり、関係を望んでくださったが故に、イエス様の十字架を与えて下さいました。イエス様の尊い犠牲によって私の罪がきよめられ、あなたとの関係を回復してくださいました。イエス様は今も大祭司として、私のためにとりなして下さっています。だからこそ、大胆にあなたに近づくことができます。なんという恵みでしょう。この素晴らしい恵みを今日も味わい生きることができることを感謝します。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン
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