「三人はペリシテ人の陣営を突き破って、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。しかしダビデはそれを飲もうとはせず、それを主の前に注いで、」―18節―
「こう言った。『そんなことをするなど、私の神の御前に、絶対にできない。いのちをかけて行った人たちの血を、どうして飲めるだろうか。彼らは、いのちをかけてこれを運んで来てくれたのだ。』彼はそれを飲もうとはしなかった。三勇士は、そのようなことまでしたのである。」―19節―
11章はダビデが正式にイスラエルの王になったいきさつと、その後の彼の活躍が記されている。ダビデが大いなる者となれたのは、万軍の主が彼とともにおられたからであると9節で語られています。同時にダビデを支えた三勇士のかしらたちが与えられたのもすべて神の摂理だったのでしょう。
この三勇士のかしらたちの働きとダビデの行動に目が留まりました。この三勇士のかしらたちとは、ヤショブアム、エルアザル、シャマという名の者達です。彼らは、ダビデがベツレヘムの井戸の水を飲みたいことを聞いて、ダビデに強制されて水汲みに行ったのではなく彼ら自身が率先して、自分たちの危険をも顧みず、ペリシテ人の陣営を突き破って行動にでたのである。このような彼らの行動は主君への忠誠心と愛からでたものであったと思います。
その彼らの主君への忠誠心と愛の行動をダビデは決して無駄にはしていません。そのことが、18節と19節で述べられています。彼らが死をも恐れずに汲んで来た水は、いのちをかけて行った人たちの血とよんでいます。それこそ、主のまえに注ぐことに値するものだと言って尊い用いかたをしたのです。彼らこそ主に献身的行為の現れであったのをダビデは読み取ったことだったのではないでしょうか。
勇士達が主君ダビデを思った行動、又、ダビデが勇士達に対する尊い用い方はすべて信仰と愛からでたものであることが示されました。私たちも教会内でそのような信仰と愛を持ち続けていくことが大切なことではないでしょうか。これこそイエス・キリストの十字架の愛であります。
ハレルヤ。主の御名をほめたたえます。三人の勇士達が主君ダビデに対して取った行動、そして、ダビデが勇士達にとった尊い用い方にキリストの十字架の愛が伝わってきました。いつも信仰と愛に飢え渇きを持ち続けて、主なる神に信頼していくことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
Komentáře