『主権者をほめたたえる』
この章では、ダビデ王がエルサレムに築かれた天幕に主の契約の箱を運び入れて、すべて主がイスラエルに命じた律法に書かれている通りに、ささげものをし、主をほめたたえた様子が書かれています。少しでも神の命じた方法に反したら、もはや神に人が近づくことができない事を、ダビデは経験していました。そこで一切の礼拝も、神の命じた律法通りに行われました。それは礼拝も自分達の生活も、全ての主権が神であることを理解し、神への従順を学ぶためでした。
主への従順とは、何かを考えさせられました。自分がまだ本当に主イエスを心から信じていなかった時には、家族と一緒に教会の日曜礼拝には行ていたものの、もしその日曜日にゴルフのコンペがあったりした時には、ゴルフ優先、友人が訪ねてきた場合も、友人中心で、恥ずかしながら礼拝は二の次でありました。そうして、ある日聞いた話に、教会の長椅子の事を英語でPewsと言うのですが、長椅子にただ座っているだけの教会員のことをPew Sitterとも比喩することを聞いて、確かに自分はそうだったと思いました。この世の主権者である主を崇めるとの意識がなかったせいです。
私たちは、主権者を覚え、主をほめたたえ、悔い改めと感謝の祈り、賛美と主への献金を心がける事によって、主との交わりが回復するのですね。ダビデの時代には、この感謝の祈りは、いけにえを捧げる事が礼拝の中心であったと思います。自分達にとって一番大切なもの(今はお金?)を、主に捧げる事で感謝を表したのですね。狩に行って奪ってきた野生の動物を捧げる事は赦されていません。自分で大切に育て、自分の財産として、いやそれ以上に子供のように可愛がっていた家畜の中から選ばれた捧げもの。その血を流す時に、なんと自分の罪深さが重いものかを体験によって知らされた、そのようなささげものであったと思うのです。そういえば、ささげもので思い出すのは、箱根の修養会で毎回、献金があるのですが、毎日なので500円玉を献金袋用に用意していたら、司会者が献金袋には音がするお金ではなくて、お札を入れて下さい、痛みが伴うささげものが必要なのですと言われたことを思い出します。
8節は詩篇からの引用ですが「主に感謝し、御名を呼び求めよ」と始まり15節「心に留めよ。主の契約をとこしえに」と続き 23節「全地よsd、主に歌え」36節「ほむべきかな、イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで。」こうしてダビデはアサフとその兄弟たちの毎日の日課として礼拝賛美をもって、主に仕えさせたとありますから、ここに聖歌隊の始まりが記されているのかもしれません。
祈り
私が、日々の営みの中で、主を常に感謝して、崇める心を持ちますように。往々にして自分の事を優先させてしまう自分をお赦し下さい。 すでに赦されているとはいえ、道を外れてしまう自分を元の道に引き続き歩む事ができますように アーメン
文:森 宗孝
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