『主との契約』
14章に続いて南ユダ王国のアサ王の時代、彼の統治が始まって15年目の事です。初めの10年間は国が平穏だったし、アサ王は主の目にかなう良いことを行っていたのですが、ユダヤの民は人心がまとまらず、町は町に逆らい、大きな騒乱があったと記されています。預言者アザルヤは、民に、あなた方が主を捨てるなら、主はあなた方を捨てることになると警告しました。しかし長年の間、イスラエルにはまことの神もなく、教師となる祭司もなく、律法もありませんでした。と表現されているところを見ると、アサ王自身は、主の目にかなっていたが、ユダの民にはしっかりとした主の教えを伝える牧者がいなかったということではないかと思います。
このアサ王は南ユダ王国3代目の王、紀元前900年の時代です。しかしながら、今の私たちの時代を表している様にも感じませんか。前回の旅で、北カルフォルニアのアラミダのショッピングセンターでこんなことがありました。薬や雑貨を扱うWallgreenという店で、買い物をしている時に、若者が二人入ってきて、いきなり24本入りビールのケースを両脇に抱えて、そのままお金を払わずに、レジを通り過ぎて行きます。レジの人は、こんなことはしょっちゅうあると言っていました。サンフランシスコの目抜き通りのお店も、あまりにも盗みが多いので、多くの店をたたんでしまいました。私たちの道徳は乱れています、教師となる者、主への畏れが無くなって、人は人に対立しています。主を捨てる民には、主はあなた方を捨てることになるのです。
アサ王は、母親が偶像を造って拝んでいたので、皇太后の位から退け、偶像を粉々にして焼いたと在りますから、主に忠実なしもべとして仕えていた事に間違いはありません。しかし17節「高き所はイスラエルから取り除かれなかったが、アサ王の心は生涯、全き者であった。」これはどういう事なのか。母親の偶像でさえ打ち壊したアサ王が、国の中に、もしも偶像が存在していたならば、それを許す訳はないのですが、高き所(偶像)はイスラエルから取り除かれなかった。 外側ではなく、イスラエルの民の心つまり内側には、偶像が残っていたと考えられます。なぜなら、民は契約をして、13節「だれでもイスラエルの神、主を求めない者は、小さな者も大きな者も、男も女も、死刑にされることとした。」しかし人の心の中にある偶像は拭いきれなかったということなのでしょうか。
祈り
主よ、私達の愛する国、日本もアメリカも主への畏れが無くなってきております、どうか真の神である主イエスに仕える決心をする者たちが増えますように、勇気を出して、力を落としませんように、その働きには報いがあるからです。信じない者ではなく、信じる者と変えられた事に心から感謝致します。
アーメン
文:森 宗孝
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