「強くあれ。雄々しくあれ。アッシリアの王や、彼とともにいるすべての大軍を恐れてはならない。おののいてはならない。彼とともにいる者よりも大いなる方が、私たちとともにいてくださるからである。」―7節―
「彼とともにいる者は肉の腕だが、私たちとともにおられる方は、私たちの神、主であり、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる。」―8章―
アッシリアが攻めて来た時に、彼らはエルサレムを嘲り、脅迫してヒゼキヤとの関係を壊そうと企んだ。だが、ヒゼキヤはそのようなことに屈せずに民にたいして、7節と8節でかれらを勇気ずけることばを発したのである。さらに、預言者イザヤとともに祈り、天に叫び求めたのである。ヒゼキヤが冷静に神を求める様子がうかがわれます。私たちが大いに学ぶべきことでもあります。国の上に立つ者が真心から神を求める心をもって司っていけば世界が変わっていくのではないでしょうか。そのためにも、私たちがそのリーダー達の為に祈り支えていくことだと思います。
32章を通して、ヒゼキヤから学ぶべきことが多くあります。どんな時にも神を求め、神への熱心さは決して断たれることがないということ。たとえ心が高ぶっても、その心の高ぶりを捨ててへりくだるということができること。これが神に信頼していく姿勢ではないでしょうか。そして、人々を正しく説得したり、物事に対して手抜きせずに細心の注意を払ってやり通していくということ。
しかし、これでめでたしかと思ったらそうではなかった。富と誉れに恵まれたヒゼキヤは高慢になったのです。これが人間の本来の姿でしょうか。31節で、「神は彼を試みて、その心にあることすべてを知ろうとして彼を捨て置かれた。」ということが語られています。どういうことかと言うと、高ぶったヒゼキヤが、バビロンの首長たちにすべてのものを見せるようにさせましたが、それは神が彼を試みて、その心のあることをことごとく知るために捨て置かれたからだと解釈されています。普段は隠し覆うことができても、自分の財産はこれだけあるのだと見栄を張ることによって、自分は金や富を求めていることが露わにされたということです。人は隠し覆うことができても、神の目はすべてをご覧になっておられるのです。
天の父よ、私たちの心には常に隠し覆うことが多々にあります。しかし、あなたの目はすべてをご存知です。どうか、あなたの目にかなうことができる義の道へと導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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