『信仰の従順』
ローマ書には、ひとつひとつの章にまるで宝石が無造作にばら撒かれたように福音がちりばめている、聖書の中の聖書と言っても良いかもしれない。語り手はイエスのしもべ、福音のために選ばれた使徒パウロです。主は彼を召されました。ユダヤ教に精通し、最高の教育を受け、語学堪能でユダヤ・ベニアミン族でありながらローマ市民であるパウロを選び出して、主のしもべとされたのです。
パウロは少なくとも3回の伝道旅行で、あらゆる地中海沿岸国、この時代においては世界中に福音を伝えましたが、ローマ帝国の首都ローマに行きたがったが妨げられていたと記されています。自分が思うには、ローマに行けなかった理由のひとつには、パウロが経験を積むこと、つまりパウロの伝道旅行で各地のシナゴグを訪ね歩き、ユダヤ教信者との激しい対立と論争を経験した故に、律法と主イエスの福音、メシアとしての十字架と復活の意義をシナゴグのユダヤ人宗教指導者たちとの論議を重ねたおかげで、最終的に、このローマ書によって、主イエスの教えと福音が聖書(旧約)に基づいたメシアのみことばである事を、熟考の上、ハッキリとクリスチャン教理を説明するための伝道旅行での体験を通じて、ローマ書に到着するのが与えられた使命ではなかったと思うのです。
その結果、パウロの鋭く、研ぎつまされた頭脳で、ユダヤ教から主イエスの福音を論理的に説明し、福音の喜びを伝える事がローマ書にて、提示できるようになったのではないかと思います。そのおかげで、やがて当時の世界の中心であるローマでキリスト教は広がり、やがて世界中の異邦人に拡散されてゆきます。教理は論理的に理解できるものでなくてはなりませんが、それを信じる信仰には、私たちの自力を超えた主の力添えが必要なことも事実であります。主イエスはこの世の創造の時の立役者「わたしは神の傍で、これを組み立てる者であった。」箴言8章30節と表現されている、宇宙の真理である主を、私たちの知性で、理解できるように、このローマ書は、深い信仰を持つようにと導いてくれます。
ローマ書1章では、福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、全ての人に救いをもたらす神の力であること、この福音には創造主である神の義が啓示されていて、義人は信仰によって生きることが力説されています。そうしてこれから、罪とは何か、律法と福音、神の義と救い、キリスト教の真髄を順をおって説明してくれるオープニングの章であることに感謝します。私たちに求められている事は、神の恵みだけに目を注がずに、神の義も同時に理解する信仰に進むことではないでしょうか。
ローマの当時においても、今の日本にも通じることですが、ここで偶像礼拝、神を神としてあがめず、感謝せず、神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものを拝んでしまっている。確かに日本の神道は、すべての物に神が宿っているとして被造物を拝んでしまっています。ローマも同じだったことを私たちは知っております。神から離れてしまったために、あらゆる不義、殺意、中傷、不誠実、無慈悲がはびこり、性的乱れが当然となると示されています。 ローマだけではなく、今の日本や米国の現状はどうでしょうか。
17節「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。」
祈り
いよいよローマ書が始まります。このキリストの福音である宝石が輝き出す学びに感謝いたします。私たちが信仰によって生きることができますように、導き下さい。 アーメン
文:森 宗孝
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