「そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。」(11:13)
当時のイスラエルの人々は、神に選ばれた民でありながら、(その中には恵みによって選ばれ「残された民」として信仰を持ち続けた人たちもいましたが、)大部分の人たちは心がかたくなになって、つまづき、不従順になって信仰から離れてしまっていたようです。それは、「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」とダビデが言った通り、神が彼らの心をかたくなにされたので、悟ることがなかったのです。しかしそれは神の御計画のひとつだったようです。
その御計画のひとつとは、イスラエルの不従順があったからこそ、それまで不従順であった異邦人が神の憐みを受けることであり、そのように実現しました。
パウロは、しかしそれで神の御計画は終わるのではない、異邦人の救いが完成されるとき、イスラエルの民はみなはかたくなであることから解放され、みな救われると言っています。(11:25,26)
まさに「神のいつくしみときびしさ」(11:22)だと思わされます。そのようなイスラエルの不従順さえも、神の御計画であり、異邦人の救いのために、そして最終的にはイスラエル自身の救いのために用いられるということだったのです。
ユダヤ教がなかったならば、キリスト教は存在しなかったかもしれません。ユダヤ教はキリスト教が発生する根、11章で言っているオリーブの「台木」だったのです。
パウロは、イエス・キリストの召命を受けて(使徒9:15)異邦人の救いのための使徒であると言いながら、彼の心の奥底にはやはり自分がユダヤ人であるからこそ、最終的にはユダヤ人がイエス・キリストの救いにあずかることを強く願っていました。
愛する天のお父さま、今日の御言葉を感謝します。私たちも多々にして不従順になって自分勝手な道に歩み、罪や失敗を犯すようなことがありますが、そんな私たちでもその度にあなたは大目に見てくださり、そのいつくしみによって、再びご自分のもとに引き戻してくださいます。本当に感謝なことです。イエスキリストの聖名によってお祈りします。アーメン
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