アハズは父ヨタムや祖父であるウジヤのような忠実な信仰者ではなかった。立派な家系の中で育ってきたアハズは彼らの残した信仰を継承しなかったのである。彼は偶像崇拝者だったことが2節~4節で述べられています。主の目にかなうことがなかったアハズの登場は、南ユダがやがてバビロン捕囚への悲しい予感だと言われています。
主が、アハズ王のためにユダを低くされたので、彼は衰退していく南王国ユダへの進行を抑えることができなかった。そこでアハズは、神を認めないで、国の再建のためにアッシリヤに多くの奪ったものを送って助けを求めたが何の助けにもならなかったのです。そしてダマスコとの戦いに負けたアハズは、そこの神々を拝むようになり、神の宮の用具を取り外し、主の宮の戸を閉じ、エルサレムの街角のいたるところに祭壇を造った。何とそこまでやるか、と思わされるところです。ある聖書解釈者によるとアハズがどうして、何がそのようにさせたのかは謎だと言われているそうです。
彼の敗北は、主からきたものであるということを認めることができなかったのです。自分が苦難の中にある時に、一番に何をすべきかを考えさせられるところであります。何が悪で、何が善であるかを見分けることができるのはただひたすら、真の神にすがっていくことではないでしょうか。
最後の最後まで神を認めないアハズは、かれの父祖の神、主の怒りを引き起こしたのである。アハズの心はサタンに完全に支配されていたとしか言いようがないですね。そのせいでしょうか、アハズの最期は実に悲しいものでした。人々は彼をエルサレムの都に葬ったが、王族の墓から離れた場所に埋葬されたということです。それは彼が罪を重ねていった、神から受ける裁きの結末だと言われているそうです。
28章で心に留まったところがあります。そこは、主の裁きのためにイスラエル人が南ユダの同胞20万人を戦利品として北イスラエルに連れ去られた時のことです。その時、主の預言者オデデが現れて、南ユダの同胞を奴隷としてはならない、もし主の命令に従がわないなら、北イスラエルの上に主の激しい怒りが下ると警告しました。それに対して北イスラエルのエフライム族のかしらたちがとった行動がすごいと思った。15節で述べられているように、南ユダの一人一人に心を配り、手厚くいたわり、帰らせたのである。これが、主の御心に従っていくという私たちの信仰ではないでしょうか。
愛する天の父よ。私たちが窮地に陥った時になにをするかということが示される28章でした。私たちの信仰が揺るがされる時にどうぞあなたに祈り、求め続けることができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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