『主の目にかなったヒゼキア王』
この29章から32章まではヒゼキア王の治世が記されています。彼は北王国イスラエルの滅亡を目にしながら、南ユダの宗教改革をすすめました。混乱の時期に建国の精神に戻ろうと努力をしたのです。この同時代には、預言者イザヤ、ミカ、ホセアが活動し、主に立ち返れと民に悔い改めを求めたのも、この時代でした。主は聖なる民が道を踏み外す時に、預言者達を送りました。果たして私たちの時代、神の子である我々が道を間違えないようにするにはどうしたら良いのでしょう。
11節「子たちよ、今、手をこまねいていてはなりません。主はあなたがたを選んでご自分の前に立って仕えさせ、ご自分に奉仕する者、香をたく者とされたからです。」
日本のことわざに「のどもと過ぎれば熱さ、わすれる」とありますが、私たちはおうおうにして、災いに遭った時にだけ、神からの救いを求める者となりがちです。一旦、その災いや苦難が過ぎてしまうと主に仕えるという約束をしたこと事態わすれてしまう傾向があるのではないでしょうか。生まれたばかりの赤子は、神の存在を教えられるまで知りません、これが原罪と呼ばれるものなのでしょう。私たちは、主の存在を忘れないように、日々、あたかも身体が食料を必要としているように、みことばを食べて、心の栄養を受け取る事が必要だと思います。
ヒゼキア王の宗教改革は、主の宮の浄めから始まり、宮の備品の聖別から、感謝の捧げ物
である全焼の捧げ物で主の宮の奉仕の準備をしたのです。しかしながら私たちは南ユダもやがて、バビロン帝国によって滅ぼされていく運命であることを知っています。ヒゼキア王の宗教改革は、主の目にかなった行いであったにもかかわらず、やがてユダの民の心は、主から離れてしまうのです。王のように上からの指導による宗教改革には限りがあります。
祈り
私たちは、主に香をたく者、天におられる主に祈りを授ける者として選ばれました。どうか我々が主のみことばを食べ、主に仕える者としての自覚を忘れませんように、主に感謝し続ける者となりますように アーメン
文:森 宗孝
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