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2024年2月5日 マタイの福音書17章

『山上と地上にて』 


 ペテロの信仰告白から六日目、主イエスは彼とヨハネ、そしてヤコブを連れて山に登られました。彼ら三人は聖霊降誕によって誕生する教会のリーダーとなっていく人たちです。ペテロは主イエスから御国の鍵をもらい、ヨハネはイエスより啓示を受け、そしてヤコブはエルサレム教会の長老となります。聖霊のバプテスマを受ける前の彼らの信仰は薄いものでしたが、主は見捨てずに成長させてくださいました。


 三人がイエスに連れられて上った山上での出来事は、天国の祝福の前ぶれでした。彼らはそこで栄光に輝く主イエスを見、次にモーセとエリヤ、そして神の声を聞きました。モーセやエリヤの登場は、旧約聖書(律法と預言)に書かれてある救い主がイエスであることの証しとなりました。さらにモーセは死から復活する聖徒の代表、エリヤは携挙される聖徒の代表として、永遠のいのちを証ししてくれました。


 ペテロやヨセフ、そしてヤコブが山上にて、天上を体験していた時、地上では使徒たちによる悪霊の追い出しが出来ないという問題が起こっていました。主は彼らの信仰の薄さを指摘されると、代わって悪霊を追い出し、そして「もしからし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。出来ないことは何もありません」と言われました。


 「もしからし種ほどの信仰があるなら」と主は言われました。このたとえから、信仰に大きさがあるかのような感じがしますが、実は信仰そのものが、からし種一粒ほどの小さなものだと言います。聖書にはたくさんの教えがあり、また奇跡がありますが、それらいくつのことを信じているかということより、信仰の対象である主をどれだけしっかりとつかんでいるかが重要だと言います。神が偉大なお方であると信じるなら、今の時代にあっても主の奇跡を体験することは可能なのかもしれません。なぜなら主は、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」からです(1コリ2:9)。


 私たちが愛する神は、生きておられます。生きて、私たちと共におられる神です。そして神は、この天地を創造し、万物を所有しておられます。神はご自身のことを「わたしはある」と名乗られました。これは私たちのような何かに依存しなければいけない存在ではなく、自助自立されているお方ということです。過去から未来にわたって偏在しておられ、そのご性質は何事にも影響されない、完全なお方です。そのようなお方に、私は愛されています。これらのことを信じますか、と主イエスに問われているように感じた章でした。

 

 祈り:愛する天のお父さま。あなたの御名を賛美いたします。今まで幾度となく自分の信仰に迷い、悩み続けて来た私を見捨てず、今も導き続けてくださっていることに心から感謝いたします。私のような者が神の子とされたことは本当に奇跡です。どうか、あなたに信頼し、あなたに従う者へと成長させてくださいますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:アイゾン直子


参照:ハーベストタイム・メッセージステーション、e-Sword「KingComment, Pulpit」


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