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2024年3月15日 マルコの福音書4章

『種蒔きのたとえ』


 イエス様はガリラヤ湖の湖畔で舟に乗って、岸に集まっていた大勢の群衆に対してボートの上から種まきのたとえを語られました。イエス様はよくたとえを使って語られましたが、そのたとえの中でも最も有名なものの一つ、『種蒔きのたとえ』です。  


 ここでは四種類の土壌に落ちた種がその後どうなったのか、ということが語られています。「種」とはイエス様の教えのことで、四種類の土壌とはイエス様の言葉を聞いた人たちの四通りの心の在り方です。

 イエス様の言葉を全く受け付けない、頭から拒否するというのは論外ですが、私たちの多くはむしろ岩地に落ちた種やいばらの茂った地に落ちた種に当てはまってしまうかもしれません。イエス様の言葉を聞いて感動したり感銘を受けるけれども、そこで止まってしまい、実行に移そうとしない人たち。


「また、別の種は良い地に落ちた。すると芽生え、育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」(8節)


 何十倍もの実を結ぶ人、つまり自分の人生を新しいものにし、社会すらも変えていく人とは、イエス様の言葉を聞くだけでなく、実行する人ということになります。


 イエス様の働きの中に、確かに神の力が働いているのを認め、イエス様の語っていることを真剣に受け止めようとしている人たちは、たとえイエス様の語っていることがすぐには分からなくても、それを考え続け、ついにはイエス様が何のことを語っているのかに気が付くようになります。

  神様はイエス様の言葉について真剣に問い続け、解き明かしを求める人に、その意味を明らかにしてくださると思います。

 「求めよ、さらば与えられる」です。

 イエス様のたとえを本当に理解すると、その人の生き方そのものが変わり、三十倍、六十倍、百倍の実を結びたいと、真剣に願うでしょう。

 では、どうすればそのように豊かな実を結ぶことができるのでしょうか?

 それは簡単でもあり、同時に難しいことです。それはイエス様が語られたことを実行することなので、とてもシンプルですが大いなるチャレンジでもあります。


 このように、イエス様は、繰り返し「聞くだけでなく、行う」ことの重要性を語られますが、私たちはついしりごみしてしまいます。ですから私たちは、イエスの教えが確かに簡単なものではない、イエス様のように生きることが容易なことではないのを認めつつ、それでもイエス様を見上げて、ほんの少しでも近づこうと前を向いて歩むと、主イエス様はそんな私たちを喜び、大いに助けてくださいます。

 私たちも良い地に蒔かれた種のようになるために、日々少しずつでも、たゆまずイエスの教えを日々の生活で、周りの人々を助け、慰め、励ましていけるようになりたいものです。


主の祈り:イエス・キリストをこの世に遣わし、私たちがどのように生きるべきなのか、そのまさに実例を主イエスの生涯において示してくださった父なる神様、その御名を讃美します。

 私たちは小さなものですが、少しずつでも主イエスに倣い、そのように生きていきたいと願う者です。

 どうかそのために私たちに力をお与えください。

 そして私たちがあなたに喜ばれる、大いに実を結ぶ人生を送ることができますように。われらの救い主イエス・キリスト様の御名によって祈ります。アーメン


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