「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」45節
10章は、9章から続いている主の受難の意義の学びが書かれている。
大切な御言葉がいろいろと書かれているけれど、目に留まったのが45節の御言葉で、仕えられるためではなく仕えるための生き方である。
仕えるとは、辞書によると、目上の人のそばにいて、その人のために奉仕することである。教会では、礼拝であり、奉仕であるということになります。しかし、イエスさまは仕えるということは、自分の命を献げることであると言われています。自分の命を捧げるとは、自分中心さを捨てて、相手を受け入れ、生かしていく愛の生き方であります。これがキリストの愛に生かされて、人に仕える生き方であると言われています。
私たちを仕える者へと新たに生まれ変わらせてくださるのは、私たちにも仕えて苦しみ、十字架でその命を献げられたイエス・キリストだけです。仕える場が教会であっても、それぞれの日常の場であっても、イエスさまのように仕えるとき、仕える生き方への道をあゆんでいることになるのです。
人に仕えるということはそう簡単なことではない。特に病気の人に仕えるということは大変な忍耐と愛を必要とするものだと思う。その時にこそ、イエスさまが私たちに仕えられたこと、無償の愛の十字架の贖いを思いだしていくことが大きな支えになるのではないだろうか。
愛する天の父なる神さま。仕える生きかたを学ばせてくださって感謝しています。常に謙遜になり、他者のために仕える生き方をあゆむことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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