マルコの福音書11章に記述されている、主イエスが大歓迎の中でエルサレムに入られた日から数えて二日目と三日目の出来事(11~21節)は非常に興味深く、あまり見ることのないイエスを見ることができます。
エルサレムに入られた日の翌朝(二日目の朝)、エルサレムに向かう途上、空腹を覚えておられたイエスは、葉の茂ったいちじくの木を見つけられました。しかし、その木には葉のほかには何もなかったのです。それでイエスは頭に来たのか「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」とその木に命じられました。
その後エルサレムの宮に入り、「民の祈りの家」であるべきはずの宮が色々な商売の場所、「強盗の巣」であるのを見て、憤りを感じて、商売している人たちの台や椅子を倒し、そこで売り買いしている人々を追い出されました。
そしてその翌朝(三日目の朝)イエスが命じられたあのいちじくの木は、根まで枯れているのを、主イエスも弟子たちも見ました。
ここを表面的に見ると、非常に不可解に感じます。まだ「いちじくのなる季節ではなかったからである。」ということを、イエスも十分ご存じだったはずのに、なぜイエスは憤りを感じられたのか、ただお腹がすいてるというだけで?とついつい思ってしまいます。
しかしこの箇所は単に表面的にイエスのとられた行動から理解しようとするより、たとえ話として見るべきであると、多くの参考書は言っています。
イエスがエルサレムに入られた最初の日、「イエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そしてすべてを見て回」られました。「すべてを見て回った」ということは、主イエスはエルサレムの町と宮の腐敗した姿、また民の霊的にも衰えていた姿をすべて感知されたと思います。
それが、イエスが最初に葉の茂っているけれども実がなっていないいちじくの木を見た時に、そのいちじくの木がエルサレムの民の不信仰さの象徴であると理解され、そして怒りを覚えられたのだと思います。ご自分の空腹を満たす実がなかったことが、イエスを怒らせたのではなかったのです。
この怒りは、主イエスがエルサレムの宮に入って、更に確かなものとなりました。当時のエルサレムは、外面的には栄えていても、霊的には非常に衰えていたようです。すばらしい宮、巨大な宗教勢力があり、儀式が盛んにおこなわれているにもかかわらず、人々は宮を商売の場所とし、また「強盗の巣」とするなど神への真実の信仰は欠けていました。それをご覧になったイエスの心の中に失望と怒りが振り起されたようです。
そして三日目の朝、またイエスと弟子たちがエルサレムに向かっている時、あのいちじくの木が根まで枯れているのを見ました。それを見たペテロは、昨日のイエスの命令のことばの強力さを感じて、「あなたののろわれた」木と言いました。このいちじくの木に神ののろいとさばきが及んだことを感じたのでした。この章の中に示されている枯れたいちじくの木は、まさに信仰的に衰えていた当時のエルサレムに対する神のさばきを象徴するものとして、主は弟子たちに示されたのでした。
主イエスはペテロのことばに応えて、このいちじくの木の意味をお話にはなりませんでしたが、あるべき真実な、神を信じる信仰と祈りの力について教えられました。
愛する天のお父様、今日のみ言葉を感謝します。私たちクリスチャンも、毎週教会に行ってしっかり礼拝を守っていても、時として真実な信仰から離れてしまいそうなことがあります。 そんな時、無限に寛容な主よ、どうぞ私たちを枯らせないで、真実の信仰に戻して下さることを願います。アーメン。
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