士師記は、ヨシュアの死からサムエルが生まれる前までのイスラエルの歴史を扱っている。およそ二百年は、全国民を統一する政治的指導者も現われず、国民を統治する機構もできていなかった。また、首都と見られる中心地もなく、各部族はそれぞれ独立した行動をとる傾向にあったと、新改訳聖書は記されている。
さらに、ヨシュア記が勝利の書と呼ばれるのに対して、士師記は失敗の書と呼ばれている。なぜなら、イスラエルの民が神に背き、偶像礼拝と不道徳に陥るという歩みを際限なく繰り返しているからである。この時代は、イスラエル史の中でも、最も暗い時代と言うことができようと述べられている。
士師記1章を読んで、リーダーだったヨシュアの死後はイスラエルを引っ張っていく指導者がいなくて民族は怒涛に迷ったことだと思う。そのような事態であっても、イスラエルの子らが勇気をだして主に尋ねるというところに感動した。自分たちで何かをするのではなくて、主、を求めたのである。
イスラエルの子らは主に尋ねた。「だれが私たちのために最初に上って行って、カナン人と戦うべきでしょうか。」1節 すると、主は言われた。「ユダが上って行くべきである。見よ、わたしはその地を彼の手に渡した。」2節
ユダ族は兄弟シメオンといっしょに行って、カナン人を打ち、聖絶し、さらにアシュケロンとその地域、エクロンとその地域も攻め取ったのである。彼らは広範囲にわたって攻め取ったのである。それは主がともにおられたので圧勝できたのである。さらに、ユダは山地も占領した。
「しかし、平地の住民は鉄の戦車を持っていたので、ユダは彼らを追い払えなかった。」19節(抜粋)
しかし、ユダは19節で、主に聞き従うことを忘れて単独行動で平地の住民を追い払うことをしなかったのである。彼らが鉄の戦車を持っているのをみて怖くなったので彼らから目をそらしてしまったのである。ベニヤミン族も同じことをしたのである。勝利をもたらしてくださったのは、主なる神であることを忘れてしまったので、主に聞き従うことができなかったのである。私たちも何らかの問題にぶつかった時に自分の意思で決めるまえに、主に聞き従っていくことができるようになりたいと思わされるところである。
愛する天の父なる神さま。今日の御言葉を感謝します。たとえ、指導者がいなくても、イスラエルの子らが主に尋ねるように、いつも主に聞き従っていくことできますように。また、目の前にあるものに恐れて逃げるのではなく、常に主が勝利をなしてくださるということを信じて、従っていくことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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