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2024年3月29日 士師記2章

『主の懲らしめ』 


 約束の地に入国した10部族は、主が与えると言われた土地を完全には征服しませんでした。先住するカナン人を完全に追い払うことが出来なかったのです。そのような民に「わたしはあなたがたの前から彼らを追い払わない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとって罠となる」という主の使いのメッセージは、士師記全体を物語っています。


 主の使いが言われた通り、ヨシュアとその世代の亡き後、イスラエルの新しい世代は主を捨てて、バアルやアシュタロテといった偶像を礼拝するようになり、主の怒りを引き起こします。そしてそのような彼らに待っていたのは苦しみでした。しかしあわれみ深い神は、その彼らにさばきつかさ(士師)を送られます。士師が生きている間、彼らは敵から守られ、主に仕えますが、士師が死ぬとさらに堕落し、他の神々に仕える、ということを繰り返していきます。


 天地を創造された神がこの状況を一瞬にして片づけられないことはありません。これまでもノアの洪水を起こされ、一瞬にしてすべてを一新されました。しかし、アブラハムが起こされてからというもの、いかに民が反抗しようと神は救い続けます。それは主イエスが再臨され、永遠の御国が来る日まで続きます。それは神がアブラハムと交わされた契約が生きているからです。


 神は背信の民イスラエルを滅ぼす代わりに、敵を用いて彼らを訓練すると言われます(21‐22)。それは主からの叱責ではなく、励ましです(箴言3:11‐12、へブル12:5‐7)。私たちも、思い通りに行かない時、霊的に停滞していると感じる時、それは主が私たちを愛するがゆえの訓練であると受け取るなら、霊的に鍛えられ、神の義という平安の実を結ぶと言います(へブル12:11)。


 約束の地に先住する異邦の民を残したのは10部族ですが、それさえ主は彼らを訓練するために用いられました。そのことを思う時、困難や苦難というのは信者にとっては神の恵みであることがわかります。すべては御国への準備なのです。イスラエルの民によるカナン入国は、私たちの御国への入国の型なのです。


 士師記を通して私たちはあきれるほどに同じことを繰り返すイスラエルの民を見ることになりますが、それはまた、自分自身の姿でもあるということを忘れてはいけないと思いました。主イエスの十字架以降、どのような罪もすでに赦されていますが、神が愛する子どもを躾けないことはないのです。主の懲らしめに感謝をささげたいと思います。



祈り:愛する天のお父さま。イスラエルの民の行動は、同じ過ちを繰り返してしまう自分の姿でもありました。それでも主は見捨てることなく、訓練してくださると言います。主の訓練に応えて、礼拝する者へと成長させていただけますよう、導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


文:アイゾン直子

参照:F・B・Meyer


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