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2024年4月1日 士師記5章

『デボラの賛美』 


 二十年にわたる苦しみの時代から解放されたその日、デボラとアビノアムの子バラクは主への賛美を歌いました。それは主の臨在なくして勝利なしという信仰が歌の中心にありました。しかし内容は、私たちが普段歌っているものとは異なり、戦いについての細かな状況が含まれていました。カナン人の王ヤビンの占領下にあった時代の民の様子や戦いの様子など、また指揮官シセラを討ったヤエルや討たれたシセラの母についても歌われていました。この賛美は、ただ単に戦いの勝利を歌ったものではありません。この賛美は主への献げもの、頌栄です。


 デボラの賛美は、4章で書かれていた事を重複していますが、内容は詳しくなっています。カナン人の王ヤビンが、彼の指揮官であるシセラにナフタリの町を任せていた時代、隊商は絶え、旅人は脇道を通ったと言います。つまり外出するのも、旅に出るのも危険な状況であったということです。農夫も絶えたその町に、デボラはイスラエルの母として立ち上がります。


 デボラ、そしてバラクを含む指導者たちが立ち上がり、民もまた自ら進んで主の戦いに参加すると、主によって勝利はイスラエルにもたらされました。町には平和が戻り、茶色の雌ロバに乗る旅人や、敷物の上に座る隊商たちが戻って来ました。しかしまだ指揮官シエラや王のヤエルが残っています。デボラは「目覚めよ、デボラ」と自身を叱咤し、バラクを導いていきます。


 私たちは、平和な社会に身を置いていますが、霊的には常に悪霊との戦いの中にいることを忘れてはいけないと思います。特に主の働きに従事している人たちは要注意です。主イエスもまた、十字架にかかる前日、弟子たちに霊の目を覚ましているようにと警告されました。もし何をするにも心がこもらないようなことがあるなら、「目覚めよ!」と自身を𠮟咤しなくてはいけないのかも知れません。


 デボラは士師として用いられましたが、士師とは称号ではありません。士師として選ばれたからといって、何かしかの地位に着いたわけでもありません。士師は神に士師として選ばれた、というだけで、それ以外何もありません。真の士師は神のみです。そのため彼らは「自分には何もない。主ご自身がさばかれる」ということを理解していなければなりませんでした。


 デボラは、士師として2重に仕えた人だと思いました。彼女は士師でしたが、戦場で敵をさばいたのはバラクという男でした。バラクは主が、イスラエルの民を救うために用いた男でした。しかし彼は、鉄の戦車を持つ敵に怖気付き、主の命令に従えないでいました。そこで主はデボラを士師として用い、バラクを立たせました。デボラは士師として主に仕えるように、バラクにも仕えたのです。


 神は女を男の助け手として創造され、その通りに主はデボラを用いたように思いました。またデボラ自身、そのように用いられていることに何ら疑問も持たず、反抗もせず、ただ主のみわざに驚き、すべての栄光を主に帰しています。


 デボラから学ぶことがたくさんあると思いました。主が私に与えた役割について、じっくり考えようと思いました。自分が現在担っているいろいろな働きについて、それらが果たしてすべて、私がするべきことなのかどうか、もう一度、時間をかけて、祈りをもって、考えてみたいと思いました。


 

祈り:愛する天のお父さま。デボラのように、主に仕えるように、人に仕えることができますように導いてください。どうか、私の心を探り、傲慢の種を取り除いてくださいますよう、お願いいたします。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:アイゾン直子


参照:King’s Comment, Matthew Henry,


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