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2024年4月3日 士師記7章

「あなたと一緒にいる兵は多すぎるので、わたしは、ミデアン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないからだ。」(2)


 これから敵と戦うという時に、神はあえて兵を減らすようにギデオンに命じました。3万2千人いた兵士のほとんどが去って1万人しかいなくなりました。

 それでも神は「兵は、まだ多すぎる。」(4)と言われて、なんと300人まで兵を減らしたのです。戦いを前にして兵を増やすなら分かりますが、逆に減らすのです。しかも300人まで減らすのです。


 その理由は明らかです。彼らが高慢にならないためです。神の恵みを忘れ、自分の力で勝ったと思わないためです。もしこんな少人数で勝利することが出来たら、これはまさに神業だと、敵も味方も誰もが神の栄光を見るためです。


 神は、私たちが高慢にならないために、恵みを忘れないために、神に栄光を帰するために、あえて減らすということがあります。

 私たちは、減らされることで真の謙遜を身に着けるのです。神の力と勝利を得て、さらにその力と勝利を経験し続けるためには、一に謙遜、二に謙遜、三四がなくて五に謙遜です。とにかく謙遜であることです。


 謙遜とは、神の恵みに生きることです。卑下することでも、遠慮することでもありません。しかしながら、謙遜であることは何と難しいことでしょうか。私たちは容易に、「自分の手」を誇るようになります。真の謙遜を身に着けたいと心から願います。そのためには、高慢な自分の姿を認め、主の十字架のもとへと進み行くことができますように。


 天の父なる神さま

 どうか、私が真の謙遜を身に着けることができますように。高慢は、すべての祝福を台無しにしてしまいます。私が恵みに生き続けることが出来ますように。自分の高慢さを隠すことなく、主の御前に正直な自分でありますように、聖霊が励まし、導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン                                           文:関真士



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