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2024年4月8日 士師記12章

『エフライム人たちの高慢』 


 アンモン人たちとの戦いに勝利した士師エフタのところに、エフライム人たちが集まって来ました。彼らは自分たちを戦いに召集しなかったことに怒り、家もろとも火で焼き払ってやると宣戦を布告しました。その態度にエフタは、ギルアデの人々を招集して応戦、彼らを討ち破ります。しかしこの戦いによって得たものは何もなく、四万二千人ものエフライム人を犠牲にしただけでした。


 エフライム人たちは以前、ギデオンがミディアン人に勝利した時も、同じ態度を取っていました。しかしその時は、ギデオンの賢明によって事なきを終えています(士師8:1‐3)。しかし今回は違いました。エフタはギデオンとは違い、事実とは異なる言いがかりをつけて来るエフライム人たちに対して、毅然とした態度で反論しました。しかし「エフライムからの逃亡者」呼ばわりされたギルアデ人たちは、その怒りをエスカレートさせて行きました。


 エフライム人たちがなぜ、ギデオンやエフタに対して高慢な態度を取ったのかについて調べてみたところ、ギデオンもエフタもマナセ族であることが分かりました。しかも彼らは、ヨルダン川東岸の土地を領土とするマナセの半部族に属していました(聖書地図4参照)。子孫に恵まれ、大きくなったエフライムにとって、東側に住む小さなマナセの半部族については無関心だったかもしれません。しかしそのような者たちが、強敵ミディアンを討ち、宿敵アンモン人に勝利したと知った彼らは怒りました。東側に住むエフタたちが、西側に住む同胞のために命をかけて戦ったというのに、エフライム人たちは共に喜ぶどころか、殺そうとしたのです。


 エフライム人たちの姿から、高慢な人は同胞の成功を喜べないことが分かります。自分のほうが優れていると思い上がって他者を見下し、相手が成功しても、喜ぶより先に怒りの感情が沸き上がって来ます。そして怒りは妬みを生み、嫌がらせをしたりして、相手を滅ぼそうとします。


 聖書には、高慢な人は神を求めない、と書いています。「神はいない」という思いがすべてだからです(詩篇10:4)。そのため主はそれを憎むと言われました(箴言8:13)。高慢にならないためには謙遜を学ぶ必要があります。すべては、主の恵みであるという信仰に立ち続けるなら、高慢な心が入る余地はなくなります。主の恵みの中で生きるなら、謙遜は自ずと身に付き、さらに妬みの感情もなくなります。



「主は あわれみ深く なさけ深い。

怒るのに遅く 恵み豊かである。

主は いつまでも争ってはおられない。とこしえに 怒ってはおられない。

私たちの罪にしたがって 私たちを扱うことをせず

私たちの咎にしたがって 私たちに報いをされることもない。

天が地上はるかに高いように 御恵みは 主を恐れる者の上に大きい。

東が西から遠く離れているように 主は 私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。

父がその子をあわれむように 主は ご自分を恐れる者をあわれまれる。

主は 私たちの成り立ちを知り 私たちが土のちりにすぎないことを 心に留めてくださる。」

(詩編103:8‐14)



 エフライム人たちやエフタから、高慢と妬み、そして怒りについて学びました。しかしそのような私たちを主は、あわれんで赦してくださり、そしてなおも、恵みの中で生きよと言ってくださることに感謝いたします。


 

祈り:愛する天のお父さま。主の恵みの中で生きることの大切さを学びました。真の謙遜を身につけるため、これからもどうぞ導いてください。お願いします。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:アイゾン直子


参照:King’s Comment, Got Questions, e-Swod



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