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2024年4月9日 士師記13章

『サムソンはナジル人』

 

 この13章はサムソンの出生を記している。聖書には神が不妊の妻に子を宿すストーリーが数多くある、例えばアブラハムの妻、サラ(創世記18章)もそうだったし、主イエスの母、マリアの親類 不妊であったエリザベツも祭司の夫ザカリアとの間にバプテスマのヨハネを産んだ(ルカ1章)このように何度も聖書には不妊の妻からの出産の話が記されているが、サムソンの母も主の使いによって男の子を産むと予告された一人でした。


 今日は特に5節、サムソンの母に対して「見よ。あなたは身ごもって男の子を産む。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから、神に捧げられたナジル人だから。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。」 神に捧げられたナジル人、この箇所にあるナジル人とは何なのかを掘り下げて考えてみたい。


 ナジル人の説明は民数記6章にあって、男または女が、主のものとして身を聖別するため特別な誓いをして、ナジル人の誓願を建てる場合に必要な条件が示されている。酒を断ち、頭にかみそりを当てず、捧げ物の規定を守る事が記されている。現代では献身することと同じ意味のようだ。


 さて、ここにサムソンの怪力の秘密があったのですね、彼は産まれる前から、主のものとして捧げられて、頭にかみそりを当てる事をしなかったナジル人であったわけです。頭を散髪しない事が、何故に誓願する事に結びつくのか、理由がわかりませんが、確かに現代のユダヤ人の超正統派の人々は、髪を伸ばし、顎髭を伸ばしているのに関係しているのでしょう。


 しかし、逆に新約聖書にはパウロが第二次伝道旅行の終わりに不思議な事をしています。使徒の働き18章18節「パウロは、なおしばらく滞在してから、兄弟たちに別れを告げて、シリアへ向けて船で出発した。プリスキラとアキラも同行した。パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアで髪を切った」この箇所では、誓願を立てていたので髪を切ったとあり、一見して矛盾しているようにも見えるのです。


 どうやら、パウロは周りの知人達からエルサレムに向かうな、危険だと知らされていたのですが、覚悟を決めて、今まで誓願を立てて異邦人伝道に全力を注いでいた宣教に区切りをつける為に髪を切った、ナジル人としての異邦人伝道の誓約を、このケンクレアで終わらせるけじめをつけたのではないかと考えるのです。 ナジル人から連想してパウロまで飛んでしまいましたが、主の霊を受け、イスラエルを海岸沿いに勢力を伸ばしていた、ペリシテ人から救い出す為に、選ばれた士師 サムソンの登場です。


祈り

主よ、私たちに与えられている使命は、どのような勤めでしょうか? 主の栄光を表す為に、なすべき事を示されておられるのでしょうか? 自分の思いで突き進んでいないでしょうか?主の御心が示されますように、祈ります。 アーメン   

文:森 宗孝


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