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2024年5月18日 サムエル記第一3章

 神様はサムエルにエリの家族の将来を告げる。それはエリの息子たちに神を教え、祭司の務めについて教え、教育しなかった故に彼の家を永遠に裁くということだ。そのことを聞いて、エリはそれは神様だという。以前神の人から同じことを語られ、息子たちに注意を促したものの、事態は何も変わっていないことを彼自身が自覚していたからだろう。そして、「主が御目にかなうことをなさるように」などときれいにまとまった言葉で、まるで人ごとのような受け答えをするのである。エリは、息子たちのことはもうなるようになれと断念していたのだろうか。2章にたましいがやつれていたとあるから、神様の預言を変えることなんてできないと神様に赦しを請い、助けを願うこともできなくなっていたのだろうか。


 神様はこの手あの手でエリに語って下さっているのに、「主が御目にかなうことをなさるように」というエリの返事を聞いて悲しかったと思う。エリにどんなに語っても届かなかったので、神様はサムエルを通しても語られたのではないかと思う。なのに、エリは自分や家族のいのち、祭司の仕事も何も本気で向き合うことなく、流されて生きているようだった。エリは自分の置かれた状況を把握しながらも、自分の無力さに絶望している状態にも思えた。


 神様は状況に対処できないエリに、その状態のまま神様の御許に来て、神様に関わってほしいと祈ってほしかったのではないかと思う。私もつい自分の力に頼り、うまくいかないと絶望し、祈る力もなくなり、もんもんとすることがある。特に、問題が目白押しの時はすぐその状態に陥る。それでも、神様は今日のみことばから、また実生活の問題から、私がどんな状態にあっても神様は離れることなく関わろうとして下さる方であることを思い出させられた。祈れなくなったとき、共に祈ってくれる友が与えられた。また、私のために祈ってくれるイエス様がおられることを知った。どうにかして支えようとして下さる神様がおられることを思う。その神様に目を向け続けていきたいと思わされた。


 天のお父様、今日のみことばを感謝いたします。自分では抱えきれないと思えることが起きたとしても、私は一人ではないことを感謝いたします。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配して下さるからです」

(1ペテロ5:7)とおっしゃって下さりありがとうございます。どんな状況に置かれても絶望することなく、あなたのところに駆け込むことができますように。どんなダメな自分を見て投げ出したくなっても、投げ出さない神様が今日も共にいて下さること感謝いたします。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン



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