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2024年5月27日 サムエル記第一12章

『主の御心を行う』


 サムエルは主の命令を受けてサウルをイスラエルの王としましたが、全イスラエルを前に語った内容は王政に対する批判でした。主による支配を拒んで、人間の王を求めた民にサムエルは、主の正義によるみわざについて、歴史を通して解き明かし、他の国々のように王などいなくとも、主はイスラエルを周囲の敵から救い出し、平安を与えてくださっていたことを思い出させました。


 サウルを王に選んだのは主ご自身でしたが、それは、許容的御心、であったと言います。許容的御心とは、主の御心ではないけれど、執拗に求めた結果、神が願いを聞いてくださることです。そのことを思う時、自分もまた、御心ではないことを願い、自分で神を動かそうとしたことがあったと反省させられました。神は寛容なお方ですから、無理な願いも聞いてくださいます。しかしそれらもまた罪であるということに気づかされました。


 御心を行いたいと願うことは大切なことだと思います。しかしそれが果たして御心なのかどうなのかについて知る術を知っておくことはもっと大切だと思います。神は御心のままに、私たちのうちに志を立てさせ、事を行わせてくださる、と言います(ピリピ2:13)。御心に沿った正しい判断をするには、聖書による神の語りかけや、祈りの中で与えられる平安を確認し、そして自分の置かれている環境や状況を考慮、さらに信仰の友の助言などを参考に、吟味することが必要だと言います。


 御心に沿った正しい選択は、良い実を結びます。しかしそれが許容的御心によるものであったなら、たとえ実を付けたとしても、いつかは枯れてしまうのだろうと思います。主は許容的御心によってサウルを選ばれましたが、彼は主に忠実な王ではありませんでした。王にはなれたものの、常に疑心暗鬼に苛まれた一生でありました。


 主のしもべとして働こうとする時、特にリーダー的な働きを示された時、それが果たして御心なのか、個人的な願望なのか、または他者の願望を満たすためなのか、示された本人はもとより、それを選ぶ側も、よくよく吟味する必要性を感じました。


 神は侮られるお方ではありません。サムエルが、王政へと移行していくイスラエルの将来を思って語ったことばは、自分に語られたことばとして、教訓にしたいと思いました。


「主に従う道から外れず、心を尽くして主に仕えなさい。」

「役にも立たず、救い出すこともできない、空しいものを追う道へ外れてはならない」

「主は、ご自分の大いなる御名のために、ご自分の民を捨て去りはしない」

「ただ主を恐れ、心を尽くして、誠実に主に仕えなさい」

「主がどれほど大いなることをあなたがたになさったかを、よく見なさい」

「あなたがたが悪を重ねるなら、あなたがたも、あなたがたの王も滅ぼし尽くされる」(20‐25抜粋)

 


祈り:愛する天のお父さま。許容的御心に甘んじていた私の信仰でさえ、あなたはなくならないようにと祈っていてくださいました。ありがとうございます。心から感謝します。聖書を通し、祈りを通し、また与えられている環境を考慮し、さらに信仰の友の助言をいただいて、正しい判断、主の御心を行う者とされますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:アイゾン直子


参照:Clay「第一サムエル記」中川健一、YouTube「御心を求める方法」松本章宏


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