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2024年5月28日 サムエル記第一13章

『サウル王のおごり』


 何度もイスラエルの敵として登場するペリシテ人、現代のパレスチナの名称は、確かにペリシテ人の地という名称ですが、今のパレスチナにはアラブ系の住民なので、この聖書時代のペリシテ人とは異なっているようです。 彼らはもともとエーゲ海から入植した民族で鉄の精製技術を持っていたので、武器を持って地中海の沿岸を占領していた民族でした。


19節「さて、イスラエルの地には、どこにも鍛冶屋を見つけることができなかった。ヘブル人が剣や槍を作るといけない、とペリシテ人が言っていたからであった。」鉄製の武器を持っているペリシテ人と一体全体戦うこと自体が無謀のように思えるのです。


22節「戦いの日に、サウルやヨナタンと一緒にいた兵のうちだれの手にも、剣や槍はなかった。ただサウルと息子ヨナタンだけが持っていた。」一体どのような兵器を持ってイスラエルの兵は戦いに出向こうとしていたのか、刀を持っている武士に戦いを挑む、スキを持った農民のようなイメージだったのだろうか。


 この13章の焦点は、ペリシテ人との戦いよりもむしろ、サウル王が徐々に変わっていった様子を垣間見るのではないかと思います。本来ならば主の霊によって新しい人と変えられたサウル王は、誰よりも主を敬い、へりくだる事を学んだ者であるはずが、イスラエルの王となり、自分の思いを優先させて行くようになってしまった。主を畏れ、主の御声に聞き従う事を忘れてしまった。全ての人は、肉体(Flesh)と自我(魂、soul)があり、同時に霊も与えられています。霊によって天なる父との交流ができるわけですが、自我が徐々に肉体の肉欲の方に近づくと、神との交流から遠ざかってしまいます。私達も、自我が肉欲、たとえばこの世の財産、権力、健康だけに集中して、神のみことばを食べずに霊的に遠ざかってしまいますと、サウル王のように、自分の思い、自我が中心となってしまうのではないでしょうか


9節「サウルは、「全勝のささげ物と交わりのいけにえを私のところにもってきなさい」と言った。そして全勝のささげ物を献げた。」 


 なんでもないような文ですが、祭司の仕事を自分で勝手に、自分の都合によっていけにえを献げてしまった。主が喜ばれるのは、砕けた心、主を畏れ、誠実に主に支える者で、主の命じた命令を守る者である事を忘れてしまった。私達も、いつの間にか祈りの中で、自分の祈りに主を従わせようとしてしまっていませんか?主の願いではなく、いつの間にか自分の願いが中心になってしまっているのです。


祈り

主よ。私の祈りが主のみこころに叶う祈りでありますように、確かに自分も、自分自身の家族の事を願ってしまう場合が多いのですが、主のみこころが成就しますように、主の栄光が表されるのが、何よりもまず、願い求める事ができますように、心砕ける者となることができますように、導いてください。 アーメン

文:森 宗孝


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