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2024年5月31日 サムエル記第一16章

『サムエルによって油そそぎを受けるダビデと、サウルとの運命的な出会い』


 やっとダビデの登場である。サムエルがサウルのことで悲しんでいる間、主はエッサイの息子たちの中に次の王を見つけたと仰せられた。そして、サウルとの運命的な出会いをするのである。これも神の摂理としか言いようがありません。


 以前イタリアに旅行に行ったときにフィレンツェのアカデミア美術館で本物のダビデ像を見た。本物の迫力は見ていてとても感動的でした。ミケランジェロのオーラが漂ってくるようで、まるで聖書の中のダビデが浮き彫りにされているようでした。筋肉隆々で大きい人だったのだろうと思いながら何度も、何度も見ました。


 話は余談になりましたが、16章ではダビデがサムエルによって油そそがれたとき、主の霊がその日以来、ダビデのうえに激しく下ったのである。主の霊が激しく下った者とは神のみこころを成し遂げる存在となっていくということです。


 それに比べて、主の霊がその人を離れると、わざわいの霊がその人を支配するといわれています。サウルがまさにそうです。そして、16章ではもう一つ、主の霊が下ったダビデと主の霊が離れたサウルの出会いである。神さまは実に人知では計り知れないことをなされます。


 日夜悪霊に悩まされるサウルのところにダビデが竪琴をもっていくのである。その竪琴によってサウルは元気を回復して良くなっていきわざわいの霊は彼を離れた。そして、ダビデはサウルに仕える者となったのである。この時点では、サウルはダビデが主によって油そそがれた者であることはしらなかったのである。だが、ダビデはサウルもかつては主によって油そそがれた者と知っていたのである。このことを知っていてサウルに仕えたということは、ダビデが全き主を信頼していたということではないでしょうか。


 

 愛する天の父なる神さま。御名をほめたたえます。ダビデとサウルを通しての学びを心から感謝します。主の霊が下ってきたとき、主の霊が離れたときのことを知って、私たちは、主の霊が離れていかないように、常に私たちに主の霊がとどまっていてくださるように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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