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2024年6月17日 サムエル記第二2章

 サウル王の死後もダビデは、主に伺うことを忘れなかったのである。とても学ばされる教訓である。


 ダビデはユダの町のどれか一つへ上っていくべきかを主に伺った。主は、「上って行け」と言われた。ダビデの賢さは次の言葉ではないだろうか。「どこに上ればよいでしょうか」と聞いた。あくまでも主の御声を自分が納得するまで伺っていくところが彼の信仰の深さではないだろうか。私だったら、「はい。わかりました。」で終わってしまいそうです。これ以上、主に伺うことがとても恐れ大きくて次の言葉がでてこないのではないだろうか。主はダビデに、「バビロンに」と言われた。なんでも主に伺うダビデは、まるで肉的な父と子の関係を思わされます。そういう神との大胆な関係を持っていけたらいいなということが強く心にとまりました。

 

 ダビデがヘブロンでユダの家の王であった期間は、七年六か月であった。


 ダビデの謙遜さは、サウル王を丁寧に葬ったヤベシュ・ギルアデの人々を主の御名で祝福し、自分への真実も願った箇所、(5節から7節)が心にひびきました。


「あなたがたが主に祝福されるように。あなたがたは、あのような真実を尽くして主君サウルを葬った。」―5節―


「今、主があなたがたに恵みとまことを施してくださるように。あなたがたがそのようなことをしたので、この私もあなたがたに善をもって報いよう。」―6節―


「今、強くあれ。勇気ある者となれ。あなたがたの主君サウルは死んだが、ユダの家は私に油を注いで、自分たちの王としたからだ。」―7節―


 そして、主に伺うことをしなかったアブネルが率いるイスラエル軍とヨアブが率いるダビデ軍の間で闘技がはじまって、それが深刻化して同胞同志が無益な殺し合いになったのである。とても悲しいことではないでしょうか。そこにダビデでがいたら同胞同志の多くの犠牲者はでなかったでしょう。なぜならダビデは、主に伺うことをする人だからです。私たちも何か事を始める前にまず主に伺うことを優先することを覚えていきたいものです。



愛する天の父なる神さま。今日の御言葉を心から感謝します。私たちも恐れなく大胆にあなたに近づいていくことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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